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「呼吸やめたらしんじゃうとか病的」

↑何かの動画で上座仏教のスマナサーラ長老が言ってて、笑ってしまいました。生きるって色々な制限があるんだよ、というお話だったと思います。呼吸やめたらしんじゃうのは普通のことだと思っていたけど、その「普通」を改めて見てみると、まじで誰が決めたん?てなって、自分というものの縛りのようなものを実感します。

昔、海で溺れかけたことがあります。全然、将来の夢とかなかったし大切な人もいなかったから、自分的にはそのまましんでも良かった。でも私は、波に転がされる中で必死に手足を動かしました。苦しかったから。どっちが岸か沖か、上か下かわからなくなるのは恐怖でした。でも、もがいたおかげで足がつくところまで戻れました。心がどうであろうと体は生きようとする。人生は、ただそれだけのことかもしれません。

長老は『怒らないこと2』という本の中で「生命とは、感覚があること」と言います。確かに、もし私が溺れた時に苦しさを感じなかったら、おとなしく酸素を使い果たしてしんでいたと思います。同じように、のどが渇いたとか感じなかったら、そのまま干からびてしにます。

つねに無常で変化し続ける「苦」という感覚があり、その「苦」の感覚が嫌で、「変えなくちゃいけない」という希望があります。その二つの働きが「生きること」になるのです。

『怒らないこと2』

生きることは苦であり、生きることが有意義でありがたいことだなんて妄想、らしい。そうかもしれません。私たちは、都合の良いことは続いてほしいと願い、都合の悪いことは終わってほしいと願う。そのようにはたらきかけたりする。でも、たいてい希望通りにはいかない。それを、うまくいってるふうに装ったり、がんばって感謝したりする必要はない。

この本には「人生は強制収容所」という章もあり、長老ちょっとそれは言い過ぎでは?と思ったけど、それくらい人間は、無自覚の不安や恐怖、脅迫感に、ある意味支えられて生きているそうです。いったんそれを認めることが大事だなと思いました。


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