映画『マトリックス』から「幸福とは何か」を考える

1999年公開『マトリックス』を観ました。

マトリックスは、ハリウッドで初めて俳優自身に本格アクションを演じさせたりそれまでになかった撮影技法を取り入れたりと、革新的な映画だったそう。

観た感想↓
※ここからネタバレ要素があるので、まだ観ていない人は一度観てみて下さい。

夢だと思ったら現実だったり、世界線がころころ変わったり。観てる側も何が現実で何が仮想なのか分からなくなってきた。
作品では、「何が現実か」という問題がずっと提起されていたように思う。

AIが人類を凌駕して、コンピューターのエネルギーを人間から得るために、人間は容器の中に入れられプラグを繋いで見せられている仮想世界の中で社会生活を営み、五感を働かせ生活している。
そこで主人公たちは人々に真実を知らせようと戦う。

ただ、登場人物の中から、真実を知る選択をしたことを後悔してマトリックスに戻ろうと画策する人が現れる。(失敗したけど)

彼は、マトリックスにいたときの方が幸せだったと主張していた。

それでも主人公たちは人々を「自由」にしようと戦い続ける。

でもどうだろう、人々は「それまでプラグに繋がれて意識のなかだけで生活していた」という真実を知らされ、解放されたとして、幸せになれるかどうかはまた別ではないか。むしろ不幸になる可能性の方が高くないだろうか。
私は再びマトリックスに戻ろうとした彼に同情してしまう。

映画の中で「『マトリックス』とは支配である」というセリフがありました。たしかに人間がどのような電気信号を受けるのかはAIによって支配されている。その状況から自由になろうと主人公たちは考えている。

ですが、プラグに繋がれている当人たちは支配されていることすら認識できていないのだから、それはもはや支配されていることにならないのでは?
本人たちは自由に自発的に行動していると思い込んでいるしそうではないと知るすべがないのだからそのままでいいのでは?
むしろ支配されている状況を知ってしまっている側が、人類を解放するとか言ってヒーローぶって人類全体を知ってしまっている側に引き込もうとしているのは、エゴなのでは?
映画の中に「無知は幸福だ」というセリフがありました。(マトリックスに戻ることを望んだ登場人物のセリフ)
実際そうなんじゃないかと個人的には思ってしまいます。そりゃ知っている側からしたら無知な人間は不幸に見えるかもしれませんが、無知な人間はそもそも知っている側の存在が見えていないのだから、救うも何もないんじゃないかと。

うーん、どうなんだろう、こう言いつつも「無知は幸福だ」と100%言い切れるかというとそんなことはなく、違和感はあります。

「幸福」をどう捉えるかですよね。主観的判断だけを基にするのか、客観的視点を導入して判断するのか。

例えば、非常に優秀だった学者が事故に遭って脳が幼児レベルに退化したとします。その学者は記憶を失い、なにかを食べたい飲みたい寝たいといった低次欲求しか持てない状態になってしまった。でもそういった欲求は周囲の人間が十分に満たしてくれるとします。
この学者自身は欲求が常に満たされている状態なので不幸を感じることもなく楽しく過ごせるけれど、客観的に見たらそれまで築き上げたキャリアが台無しになって知性も失われて不幸だ、と思われるのでしょう。
この場合この学者は幸福なんでしょうか、不幸なんでしょうか。
周囲の人間は不幸だと思うかもしれないけれど、本人はその状況を認識できないのだから、常にハッピーな状態が続くわけです。
それを客観的視点から不幸だと思うのは、勝手な判断というか、余計なお世話だなと思ってしまいます。

「幸福」って何なんでしょう···支配されることは必ず不幸と結び付くんでしょうか···