見出し画像

キングダムの呂不韋の話

漫画『キングダム』を再読しています。
現在40巻を読んでいて(最新刊は69巻)で、秦王嬴政と相国呂不韋(相国は文官最上位の位)の「中華統治」の方針の議論という作中でも屈指の名シーンです。

相国呂不韋は「天下の起源」を「貨幣制度」であると断じる。それまでは、自分の生きている範囲しか興味のなかった人間が、貨幣の誕生により、その興味の範囲を拡大していったと論じます。呂不韋は「”金”が人の”欲”を増幅させたからです。」と述べたあとに、その理路を次のように語ります。

千年以上前 「商」の時代とも言われますが、貨幣制度の誕生で物々交換であったそれまでの世界は一変した
運搬し易く腐らぬ貨幣は物流に”距離”を与え 散財していた社会を次々とつなげ広げていった

『キングダム』 原泰久著 39巻

さらに呂不韋は、貨幣の「最大の発見」を別のところに見ます。それは「裕福の尺度」に人々が気づいたということです。隣の者と自分を比べ、隣の村と自分の村を比べ、そうして争っていく中で、人々の「我欲」が増幅していき、争いは激化していったと呂不韋は喝破します。

だから、呂不韋の国家観は、この「欲」を御することで秦という国を発展させ、さらにその発展の恩恵を他国にも分け与えることで「中華を統治」しようというものです。

これには、とても説得力があります。一度、経済関係を結んでしまえば、侵略戦争の代償は大きくなります。現在の世界が、過去のいずれの世界と比べても「戦争が少なく」、「平和な時代」であるのは、まさに「グローバル経済」の恩恵なのです。どこの国も自国だけでは生きていけない「共依存」状態は、侵略戦争の価値を下げ続けます。

つまり、呂不韋の国家観は、作中の時代の2000年後の世界がなんとか実現した「平和の秩序」そのものなのですね。もちろん、現在が比較的「平和な時代」と書きましたが、相変わらず戦争はあります。ロシアしかり、イスラエルしかり。しかし、それも呂不韋は想定しています。

ええ、なくなりませぬ
なくなりませぬとも
いかなるやり方でも 人の世から戦はなくなりませぬ
(中略)
大義のための戦う者
仲間のために
愛する者のために戦う者
ただ私利私欲のための戦う者
復讐を果たす者
しかし 誰も間違っていない
どれも人の持つ正しい感情からの行動だ

同書

ここまで言われてしまうと、普通はぐうの音も出ないような気がします。実際、僕が嬴政ならば、降参してしまいそうです笑

でも、嬴政はここから反撃に転じます。

嬴政の国家観は、呂不韋の国家観を「人へのあきらめ」と断じ、人の本質は「光」であるとして、自分の世代で戦国の世を終わらせて、次の世代に「人が人を殺さなくてすむ世界」の実現を目指すというように要約できます。これ以後、斉王との議論ではさらに詳細な国家観が語られて、嬴政は「法治国家」を目指すという全体像が見えてくるのですが、その辺りは本編で読んでみてください。

さて、嬴政と呂不韋の議論については、説得力はどう考えても呂不韋にありますよね。ここでいう説得力は「実現力」とでもいいましょうか(どこかの政党のポスターみたい)。おそらく、呂不韋は自分の国家観を実現させるためのノウハウは持ち合わせていたのでしょう。

一方、嬴政の国家観は「前人未到」なわけです。だから、ここでの嬴政の説得力は「情熱」とか「希望」などの「見えないナニカ」に支えられています。だから、やや説得力に欠けてしまいます。

それでも、読者が嬴政に惹かれるのは、そこに「未来への希望」があるからでしょう。現状追認で「戦争は無くなりませぬ」という呂不韋自身も、そこに自分には足りないものを悟ったのかもしれません。

ここでは、僕の国家観を語るわけではありませんが(僕にそんな大それたものは無い)、ここに教育という文脈からこの議論を覗いてみると、これは丸々、教育論にしてもいけるのではないかという、気がしたのでこうして語っているわけです。

教育も「未来をつくる営み」です。教育基本法の目標にも、「平和で民主的な国家及び社会の形成者の育成を期して行わなければならない」と明記されています。だから、あなたの教育観は「呂不韋的」か「嬴政的」かを考えてみてもいいかもしれません。

呂不韋的教育観というのは、「現在の社会が〇〇だから、今の子どもたちにも⬜︎⬜︎させておく」というものですね。例えば、「パソコンが使えないと仕事ができない社会なのだから、子どもたちにはパソコンスキルを身につけさせないといけない」という言説は、学校現場でも強い説得力を持って語られています。たしかに、そうなのでしょう。

一方で、呂不韋的教育観には「現状追認」という思考が底流に流れていることを忘れてはいけません。それは、教育基本法にある「形成者」と齟齬します。形成というのは「つくる」という意味があります。それは、我々が作り上げたものを「維持」するだけでなく、数多くある至らない点を「再構築する」という意味も含んでいます。

我々の世代では成し遂げられなかった課題を、次世代に託すというのが、教育の本質の部分ではないかと、僕はそう考えます。だから、嬴政が呂不韋の国家観を「人へのあきらめ」と断じた点も理解できます。呂不韋はあくまで、「自分が生きている社会が至高」なのです。変容を望んでいない。一方、嬴政は、「今の社会のままではダメだ。次の世代で達成するぞ」と考えています。

ここに、呂不韋と嬴政の違いを「時間軸」でも比べることができます。呂不韋は「いま、ここ」という価値観で判断していて、嬴政は「未来」を見ているわけです。

では、どうすればいいのかという話になると、それはまた別の機会に語るとして、あなたの教育観に「未来」の「国家や社会の形成者の育成」という視点があるのかどうか、そして、それは「現状追認」ではなくて「より良い社会の構築」があるのかどうか、を自己点検してみてもいいのかなと思いました。