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#6 太宰治全部読む |明るくて自由な太宰文学

私は、太宰治の作品を全部読むことにした。

太宰治を全部読むと、人はどのような感情を抱くのか。身をもって確かめることにした。

前回は太宰の代表作、『人間失格』を読んだ。晩年の太宰が身を削って書いた、人生の総決算とも言える小説に、ひたすら圧倒される思いだった。

今回取り上げるのは、『走れメロス』。

中学国語の教科書に載っている掌編「走れメロス」をはじめ、中期の短編が収録された本作。さて、どうだろう。



太宰治|走れメロス


人間の信頼と友情の美しさを、簡潔な力強い文体で表現した『走れメロス』など、安定した実生活のもとで多彩な芸術的開花を示した中期の代表的短編集。「富士には、月見草がよく似合う」とある一節によって有名な『富嶽百景』、著者が得意とした女性の独白体の形式による傑作『女生徒』、10年間の東京生活を回顧した『東京八景』ほか、『駆込み訴え』『ダス・ゲマイネ』など全9編。

あらすじ


新潮文庫『走れメロス』は、昭和13年から20年まで、太宰の作家活動の中期に書かれた短編を収録している。

時期としては、日本がちょうど第二次世界大戦へと向かっていく頃だ。そんな不穏な風潮の中、文壇での評価を確立し、太宰文学の芸術性は大きく開花していた。

これまで『ヴィヨンの妻』や『人間失格』など、絶望の色が濃い作品を読んできた私は、『走れメロス』の短編を読んで驚いた。

明るくて、自由だ! 

太宰の文学が、伸び伸びと羽を伸ばし、生き生きと輝いていた。当時の人々が太宰文学に熱狂した理由もわかる。これは面白すぎる。



ダス・ゲマイネ

ダス・ゲマイネとは、ドイツ語で「一般的な・通俗的な」という意味らしい。

登場人物は、佐野、馬場、佐竹、太宰の男4人。全員毛色は異なるが、少なからず、太宰自身の特徴が投影されている。

馬場の、何者にもなれない焦燥感や、偉く見られたい一心で嘘の武勇伝を語る様が、ずしりと胸にくる。寂しさ、虚しさ、無力感に苛まれ、本質を伴わない言動に走る、若者の悲痛を切り取った短編。


満願

3ページほどの短い掌編ながら、心が晴れ晴れとする、明るい作品だ。これは本当に太宰が書いたのだろうか、と疑ってしまうほどである。

夫の健康を祈り、快方の喜びを白いパラソルをくるくる回すことで表現する妻に、温かな気持ちになる。


富嶽百景

御坂峠の山頂にある茶屋に逗留し、富士山を仰ぎながら執筆をする太宰。

頂上から眺める富士山は、麓に広がる河口湖、そしてそれらを包み込む峰々も相まって、非常に美しい。しかし天邪鬼の太宰は、あまりにおあつらえ向きすぎると軽蔑し、俗っぽすぎて恥ずかしいと評する。

しかし最後には、結局富士山が好きだと、太宰お得意の手のひら返し。通常運転で安心である。

「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやってるなあ」富士には、かなわないと思った。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士は、やっぱり偉い、と思った。よくやってる、と思った。

p62より引用

後に当人が「事実無根」と否定した、井伏鱒二伝説の放屁シーンも見どころである。


女生徒

『斜陽』の記事でも書いたが、太宰は若い女性の一人称視点で小説を書くのが抜群に上手い。「女生徒」は『斜陽』に比べ、より女性の心中をはっきりと告白している。やはり、少女の魂が太宰に憑依しているとしか思えない。

主人公は14歳の女子学生。自身の個性を愛したいけれど、周囲の大人が望む通りの、「模範的な」行動ばかりしてしまうことに悩む。

きっと彼女は、周りの同年代の友人よりも、ほんの少しだけ大人なのだ。大人であるが故に、まだ幼くて力のない自分自身や、嫌でも目についてしまう世の中の汚れた部分に、絶望してしまう。

思春期ならではの、浮き沈みの激しい心情を的確に表している。個人的には『走れメロス』の収録作品で、一番のお気に入りである。

余談だが、本作には「眼鏡」に対する少女の見解が述べられている箇所がある。眼鏡ユーザの私としては、思わず「そんなことないよ」と、眼鏡を擁護したくなってしまった。

だけど、やっぱり眼鏡は、いや。眼鏡をかけたら顔という感じが無くなってしまう。顔から生れる、いろいろの情緒、ロマンチック、美しさ、激しさ、弱さ、あどけなさ、哀愁、そんなもの、眼鏡がみんな遮ってしまう。

p86より引用


駈込み訴え

キリストに対する、信徒ユダの愛憎が主題の短編。キリスト教と太宰文学のコラボレーションだ。

キリストに付き従っても何も良いことはないと切り捨てながら、それでも熱心に奉仕してきたユダ。実は他の信徒の誰よりも、彼はキリストを愛していた。命を投げ出すほどにキリストを愛し、その見返りがないことを嘆き、終いには相手を罵倒するまでに至る。

本人は愛ゆえの行動と言っているが、言動が二転三転したり、言葉遣いが悪かったり、百姓を差別したりと、本作のユダは心が汚い。太宰の手にかかればユダも、ほら吹きで下卑た商人になってしまう。


走れメロス

中期太宰文学の、ひとつの到達点とも言える掌編である。

友情と信頼の素晴らしさが描かれ、太宰文学の中では飛び切り明るく、力強い文体で書かれている。中学国語の教科書に採用されており、多くの日本人に親しまれている。

改めて読み返してみると、意外な発見が多かった。メロスは終始走りっぱなしなのかと思いきや、意外にも結構歩いている。また、走っている最中に、人や犬を跳ね飛ばしていて危ない。

これまで読んできた太宰作品とは毛色が異なり、挫折や諦観などの要素はありつつも、全体的に正義と希望に満ちている。文豪・太宰治を研究するうえで、貴重なサンプルなのではないかと思う。太宰は当時、どのような気持ちでこの物語を書いたのだろう。

実は本作「走れメロス」をテーマ本にして、先日友人と読書会を開催した。その様子を、趣味でやっているPodcastに投稿しているので、お時間があれば聴いていただけると嬉しい。


東京八景

太宰が東京大学仏文学科入学と同時に上京し、その後の約10年にわたる東京生活を回顧した自伝小説。太宰作品の背景や彼の人生を知るうえで、非常に重要な短編である。

大学を落第し続ける失意の中で執筆した『晩年』の制作過程や、女性・Hとの夫婦生活・別離など、東京の街で彷徨い暮らす太宰の半生が綴られている。若くして味わった人生の挫折。太宰文学の真骨頂である。


帰去来

太宰を気にかけ世話をしてくれる、故郷の呉服屋の中畑さんと、東京の洋服屋の北さん。このふたりの男性を主軸に書かれた短編。二人とも非常に懐が深く、人生常時綱渡りの太宰を、いつも助けてくれる。

北さんの計らいで、断絶していた故郷の生家に太宰が帰る話が出てくる(太宰にとって、家族との不和は最大の懸案事項であった)。祖母や母、次兄との再会が描かれており、家族との関係性がよくわかる作品である。


故郷

「帰去来」の続き。母の容態が悪くなり、「帰去来」完成直後に、太宰は再び津軽へと戻る。

太宰は何度も生家を裏切り、特に長兄との間には、深い断絶があった。それが、母親の危篤がきっかけとなり、完全なる和睦とはいかないまでも、兄弟が再び集まった。

これまで太宰作品を読んできた分、家族が一堂に会するシーンには大きな感動があった。取り計らってくれた北さんの最後の言葉に、思わずグッときた。

もう私は、何も要らない。満足です。私は、はじめから一文の報酬だって望んでいなかった。それは、あなただってご存知でしょう? 私は、ただ、あなた達兄弟三人を並べて坐らせて見たかったのです。いい気持です。満足です。

p274より引用



『走れメロス』に収められた中期作品には、明るい色調のものが多かった。『ヴィヨンの妻』と比較すると、その差は歴然である。太宰の精神状態の違いが、作品に明確に表れている。

太宰文学には、太宰自身の生い立ちが、色濃く反映されている。そのため、太宰作品を読めば読むほど、太宰のことがわかってくる。

そしてうまいことに、太宰のことがわかってくるほど、太宰作品が面白くなる構造になっている。これは無敵の相乗効果である。

この相乗効果を味わうためには、やはり「太宰治全部読む」のように、全作品を読んでいかなければならない。作品を点として捉えるのではなく、線として繋ぎ、面として味わう必要がある。

皆さんも「太宰治全部読む」を実践し、一緒に太宰沼にハマろう。



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