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良いお母さんという価値観を捨てませんか?

こんにちは、めげないやつ子です。

“良いお母さん” とは世間の評価の値、基準。

そんなものは無い!
と、私は思う。


そもそも良いお母さんになんて、あなたも私も誰もなれないから目指す必要もない。逆に安心していい。


でも外側に答えや評価を求めると、本当に大切な事から目を背ける事になる。


本当に大切な事は面倒くさい事が多い。
なぜなら大切だと怖くなるから、それ以上考えたくないという気持ちが働く。

例えば、

少し高い崖から自分が飛び降りるのは怖いけど、そこら辺にあった木の枝なら落としても怖くない。

なぜ自分だと怖いかというと失敗したくないから。


大切なものほど失敗が怖い。
だから外側に答えを探してしまう。

もうこれで失敗しないはず…
だから安心…

そんな風に当てはめたくなる。


他人から良いお母さんと評価されても、子どもが求めている事は別次元なんだと思う。

これは私自身が母から条件付きで愛された経験と、息子に私の価値観(エゴの正当化)を押し付けてきた経験から、そのように感じる。


評価とかじゃなく、もっと深くてシンプルなのだ。


親は親になる以上は子どもの味方でいなければならない。

それが出来ないなら、子どもを道具・手段として見ているのと同じだ。

違うと言ってもそうなのだ。

私は無意識にそうしていた。
無意識に私の心を満たしてくれる存在として息子を育てていた。


子どもは親の味方でいる必要はない。
子どもは自分を大切にする人生を進んでいけば良い。


私は昔から、家族としてわかり合いたいという望みがある。

私は、私の思い描いてきた理想のようには母とわかり合えないのだと、心のどこかでは気付いていたのだと思う。

だから余計に、そこに執着してしまったのだろう。


わかり合う形に正解はない
でも理想を思い描くのは自由

その理想と違う形だったとしても自分たちに合うものであれば、それがどんなに変な形でも幸せの形になる。なっていく…という感じだろうか。


それを探す過程がめっちゃ面倒くさいのだ。

理想を諦めなければいけない瞬間は辛いし、相手がその事を理解しないと裏切り者というレッテルを貼られる。

つい目をそらしたくなるし、わかりやすい理想を謳ったパッケージのような一般的な形に はめたくなる。


自分たち
お互い

これを崩したらダメだ。

人間関係は どちらかではなく両者で成立している事だから、どちらかに合わせると不幸に傾く。


誰もに当てはまるものだとサイズが大きすぎて満たされない、もしくは小さすぎて窮屈。


自分たちだけの形

それをその関係性で見つける事ができたら幸せで満たされると思う。


でもねぇ…お互いってねぇ…これがどうしても出来ない人もいるから、だとしたら、優先するのは自分でいい。


子どもは親の味方でいなくても良い
自分を大切にする人生を進めばいい。

それが一番の親孝行であり、親を親として存在させてくれている事でもある。


その事に親が気付いていなくても、救っている事になる。

私は息子が私のエゴである願いに反して自分の意思を貫いた時、救われた思いがした。


それではまた。






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