おまじない

先日、またひとつ歳を取りました。
この頃なんだか疲れてしまって、スイッチがぱちんと切れたみたいに動けなくなって、働くのも遊ぶのも億劫になってしまって、しばらくお休みしていました。
何度も何度も行こうと思って行けなかったネイルも美容室も誕生日の前日にやっと行けました。タトゥーは結局行けなかったけれど。
初めてこんなに長くてキラキラでゴツゴツしたネイルをしました。きれいな緑色で、柄にもなくリボンやハートが沢山で、とっても可愛くて不便で愛おしい。
思ったより赤くならなかった髪も、陽の光に当たるとふわっとワイン色が透けて素敵。
去年と同じように大好きな子とご飯を食べて、日付が変わってお酒を飲んで、たくさん話して笑って。でも、今年はたっくさんのサプライズもしてもらった。
知ってる人も知らない人もみんなが笑顔でハッピーバースデーって歌ってパチパチの花火が刺さったケーキやシャンパンをくれた。
その時間だけは間違いなくあたしが主役で注目の的で、一番幸せだった。
プレゼントをもらったり、あたしのためにみんなが歌ってくれたり、おめでとうをくれるのがこんなに嬉しくて恥ずかしくて幸せなことを知らなかった。
20歳になるまで知らなかった。誕生日って悲しくないんだって。寂しい日じゃないんだって。
今日なんかある日だっけ?なんて言われて一人でスーパーの半額のケーキを食べることなんかないんだって。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
この一年でこんなにたくさん大事な人ができた。居場所がたくさんできた。
だから、きっと、もう大丈夫だって。
分かってるけど、それでもまだ落ち込むことが時々あって、黒いモヤみたいなのに飲み込まれそうになる。
今までの苦しかったことをちゃんと言語化して整理して、気持ちの落とし所を見つけることがまだできてないから。
21歳になっても子供の時のかなしい記憶に振り回されっぱなしで、そんなんでこの先の人生もずっとかなしい気持ちに支配されてしまうなんて嫌だ。そんなの悔しい。
だから、もう今ここで終わらせよう。
ちゃんと書いておこう。
忘れたいからじゃない。
忘れないように。
でも、前にすすめるように。
あたしがこの先もちゃんと、あたしのままで生きていけるように。

あたしの中で一番古い記憶はおとうさんが一緒に住んでた頃のたぶん唯一の記憶。
真っ赤な革張りのソファと洗面所からおかあさんがおとうさんに話しかけてる声。それだけ。
いつのまにかおとうさんはいなくなってて、知らない人があたしのおとうさんになってた。
しわしわで赤くてちっちゃい物が生まれて、それがあたしの妹になった。
あんまり喋らなくて笑わないおとうさんのお母さんのお庭に生えてたいちじくの木と珍しい名字。幼稚園の頃行ったりんご園のりんご。なんだかいつも怒ってるおかあさん。
新しくて広くて灰色の家と雨の日に大きい窓から見た灰色の空。
幼稚園のマラソン大会で1番になったときおかあさんが手づくりしてくれたおめでとうって書かれた小さいケーキ。
いつのまにかまたいなくなったおとうさん。
いなくなる前に妹と三人で行った山の上の古くて小さい遊園地の亀。
煙草で黄色くなった歯を見せて思いっきり笑ってたくさん遊んでくれた本当のじゃないおとうさん。好きだったんだけどな。
あたしの誕生日に派手な服を着て化粧をしてどっかの男に会いに行くおかあさんを冷蔵庫に寄り掛かって眺めてた。
酔って知らない男を連れて帰ってきたおかあさんがリビングでセックスしてるのをふすまの隙間から眺めてた。
朝起きて濡れた床や裸でこたつで眠るお母さんを眺めてた。何も聞けなかった。
小学校5年生くらいから朝学校にいけなくなった。初めておかあさんに殴られたのはいつだっけな。中学校にほとんど行けなくなったのはなんでだっけな。何度殴られたのかな。
今考えたらつまんない理由だったんだろう。狭い世界でのことだったんだろう。でもそれがあたしの世界のすべてだった。
学校には行けなかった。教室の扉がすごく重くて怖くて開けられなかった。同級生の目が全部あたしをあざ笑うみたいに刺さって見えて隠れて生きてた。
殴られた。蹴られた。怒鳴られた。
なんで学校に行かないの。どうして朝起きないの。あたしの顔を潰す気か。障害者じゃないのか。産むんじゃなかった。出来損ないだ。不細工だ。そんなんだからあんたは。もう。
髪を掴まれて、引きずられて、荷物をゴミ袋に入れられて、踏まれて、過呼吸になっても泣いても許されない時間にあたしはどうしたらよかったんだろう。
教室には入れなくても部活はたまに行ってた。一緒に帰る友達もいた。でもいなくなった。
気づけばまた知らない男が家に来るようになって、その人は全然好きじゃなくて気持ち悪くて受け入れられなかった。
いろんなことが夏の夜に耐えきれなくなって初めて家出ってものをしてみた。バイパス沿いや真っ暗な国道沿いを星を見ながら何時間も歩いた。朝まで公園で待って昼は図書館やモールをふらついて、また夜になった。警察の人に補導されておばあちゃんの家に連れてってもらった。おばあちゃんとおじいちゃんは怒らなかった。おばあちゃんが桃を剥いてくれて、それを食べてすぐに寝た。ここなら怒られても殴られはしないって安心した。
冬に死にたくなって遺書を書いて、あたしだけのお気に入りの場所から飛び降りようと思って行ったんだけど死ねなかった。寒々しくて寂しくて怖かった。帰って泣きながら寝た。
高校はちゃんと入れた。おかあさんが望んだところにちゃんと受かって、最初の方は頑張れてた。でも、家が耐えられなくて、夏休みに入るちょっと前にあたしは逃げた。
学校に行くふりをして窓から着替えを入れた鞄を投げて外に出て、電車と新幹線を乗り継いで遠くて知らないところの知らない友達の家まで逃げた。
すぐに見つかって警察の人に連れ戻されそうになったのを拒否して施設に入った。
それはそれはとても酷いもので、でもそれはそこにいる人たちのせいではなくて、子供をこんなに可哀想な生き物にしてしまう大人ってものに絶望した。
でもそこにいた先生を勝手に生きる希望にして何年もずっと追っていたら繋がることができて、数年ぶりに会った先生はやっぱり普通の汚い大人だった。
施設を出されてからお姉ちゃんにもおかあさんにも怒られた。お前のせいでって。
だけど15歳のあたしが帰る場所はそこしかなかった。秋から高校も行き始めたけれど今度は学校でもいじめられるようになった。
お昼を食べてるだけで後ろから笑われて、いない日に陰口を叩かれているってわざわざ教えてくれた子がいた。仲のいい子はいつも困ったように笑ってた。
そんな時にレイプをされた。初めて会う男に。
あたしも悪かったのかもしれない。知らない男に付いていったのも、断るのが怖くてへらへら笑ってしまったのも、なんでもないことのように帰ったことも。
でも帰りの電車に乗ろうとしたとき耐えきれなくて男の子の先輩に助けてって連絡したらすごく怒ってすぐに迎えに来てくれた。
そのまま男の家に戻って車の中で話をした。
暗い車の中でぬらぬらと光るそいつの目や半笑いでごめんねって謝る声や運転席からあたしの方を触ろうと伸ばしてくる手をまだ覚えてる。
冷たいアスファルトの上で土下座する男を見て人はこんなに簡単にプライドなんて捨てれるんだと思った。
おかあさんにはそんな話死ぬまでしたくなかったのに先輩とそのおばさんはあたしのおかあさんの話を聞いてもすごく怒って家に乗り込んでしまった。
外であたしのおかあさんと髪をつかみ合って怒鳴って喧嘩しているおばさんはすごく怖かった。先輩があたしを守ってくれるって信じてた。でもなぜかおばさんは泣きながらあたしのおかあさんの味方になって、やっぱりあたしだけが怒られた。
その日はおかあさんには怒られなかった。
あたしを襲った男にもそいつの大学にも警察にも電話してすごく怒ってくれた。
だけど警察にはあたしが悪いって言われた。
その時の話を警察のおじさんに何度も細かく説明して半笑いで呆れられた。生々しくて直接的な言葉ばかりが厭らしく並べられた調書をおかあさんの前で読み上げられた。
帰ってからお母さんに怒られた。あんたのせいであたしまで恥をかかされたって。
あの男があたしの隣の部屋で警察の人と笑ってサッカーの話をしてるのが聞こえた。
制服や下着まで全部見せて指紋を取って説明をして、あたしは子供ができなくなったのに、あの男は捕まらなかった。大学を出て東京のどこかでまだ笑ってるんだろう。
高校は一年で辞めてしまった。
通信制の高校に入ってバイトを始めたら案外楽しくて、彼氏と毎日夜まで遊んで、みんなが寝静まった頃に家に帰る生活になった。
けれど何度かミスをしてからバイトにもまた行けなくなって辞めてしまって、新しいバイトを見つけてすぐ、ライブのために来たはずの東京に家出みたいに引っ越した。
たくさん馬鹿なことをした。たくさん迷惑もかけたし怒られた。きっとたくさんの人を傷付けてきた。嘘も数え切れないくらいついた。汚い事もしたし今もきれいなんて言えない。
でも生きてる。だから前を向こうとしてる。
ただ、おかあさんの怒声や血走った目やあの鈍い痛みをまだ昨日のことみたいに覚えてるのにおかあさんの匂いや抱きしめられたときの温度や笑顔は思い出せないのが、いや、それらをきっとあたしは知らないのがすごく寂しくて悲しい。愛されてなかったわけじゃないのは分かってる。あの人なりにあたしをどうにか育てようと愛して心配して奮闘してたんだろう。でも、感情や欲望のコントロールが出来なくて、いつまで経っても少女みたいな人だから、うまくいかなかったんだろう。
あんな人でもあたしの世界に一人しかいないおかあさんだから、15年同じ家で同じ空気を吸ってきたから、なんとなくわかる。
きっとたくさん苦労して悩んで頑張って、切羽詰まってどうにも耐えきれなくて、壊れてしまったんだろう。
あたしみたいに。
でも、おかあさんも生きてる。
あたしもまだ生きてる。
そして同じ人間だ。
だから分かり合えなくても理解はできる。
あたしの過去はなくならなくても、時間をかけて咀嚼してちゃんと飲み込んだら、ちゃんと消化される。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。


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