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ジュディス・バトラーという人の歩み / This Life, This Theory (Judith Butler)

つい先日まで「ジュディス・バトラー」という高名な先生を知らなかったが、友人の話に出てきたのをきっかけにこの現代思想の臨時増刊号による特集を読んで、「めっちゃいい…!」と心を動かされた。

というのも、ジェンダー学・フェミニズムというと特定の人々のための学問、という印象がぬぐいきれないが、
バトラーによる議論は社会構造により自分の生を生きづらいと感じている全ての人々に向けられた、かなり普遍的で、そして極めて人間的なものだと感じたのだ。私自身の同一性の問題にも関わっているようにも思えた。

今回は、この現代思想の臨時増刊号の冒頭、ジュディス・バトラー先生の自身の哲学との出会いからの歩みについての講演について、心に残ったことを記しておく。

ジュディス・バトラーと哲学の出会い

若い頃のジュディス・バトラーが求めていたのは、『より確信をもって生きられる生き方』であった。
それは、先生がレズビアンであるということとも間違いなく無関係ではなかったただろうが、同一性の混乱をおこし、すぐに絶望におちいる不安定な全ての若者にとって喫緊の問題である。

そんなさなか、バトラーは家の地下室で偶然スピノザの『エチカ』に出会った。

「善い生をどのように生きるか」

ユダヤのバックグラウンドを持つバトラーにとっては、生存そのものが自明なことではなかった。
生きるための条件を得ることこそが生を望むことを可能にし、
それと同時に、生を望むことは善き生を送ることと不可分だ
、と感じていた。

それでは、善い生をどのように生きることができるのか。

バトラーはその答えをスピノザから、哲学から、情熱的に学ぼうとした。

しかし、大学で教えられるような意味論や形式の議論からは、バトラーが求める答えを得ることは難しかった。
そのような議論ではなく、対話によってのみ、その答えに近づくことができるのである。

そう考えたバトラーは、単に対話を生み出すだけでなく、哲学を超えてさまざまな学問の領域をまたぐ、という作業をすることになった。ジェンダー論、フェミニズム、クィアセオリー、人類学、社会学…。

バトラーのテーマ

「どのようにして私は善き生を送るのか」という問いに答えるために、さらにバトラーは問いを深化させていった。

問いを立てている主体であるこの「特定の生」は、生き残るための社会的・環境的条件から独立して考えられるのか。
権力と支配が、ある生を価値あるものとし、またある生を価値のないものとするならば(ex. 戦争)、生の善さはなぜこう不均衡に分配されているのか。


社会がある生の価値を損なわせる構造になっていることは、私もひしひしと感じている。医療福祉の場面でも直面する問題だろう。
尊ばれる生と尊ばれない生があるという現実。
価値のあるように見えない生、でもそれを規定している価値とは何なのか。

私たちは考えなくてはいけない。考えざるをえないのだ。

そして、バトラーは代表作『ジェンダートラブル』の中でより具体的で切実な問題としてこの問題を示している。
既に確立されたジェンダー規範から独立した「私」は可能か。
ジェンダーにより構造化された世界で生きよと命じられることと、生きることを望むこととの間の関係はどのようなものか。

切っても切れない関係

これらの問いに対してバトラーがとった立場は、「私たちは切っても切れない関係の中におかれている」というものだ。

私たちを取り囲む社会的・環境的条件は私たちの生をやっと可能にするものである。
そしてそれらに依存していることでと私たちは極めて不安定な状況に置かれていて、それらとの関係によってもろくさせられている。
すなわち、私たちは完全には「個体化」されていないのだ。

この「個体化」の問題はスピノザの『エチカ』に深いつながりを持つ。
スピノザによると、ある集団はある行動がある一つの結果を引き起こすことで初めて単一の個体としてみなされる。個体性とは一つの達成に過ぎない。逆に言えば、単一の個体としてみなされているものは内部には区別が存在する。
「行動が協調して一体となっているからといって、行動の内部での区別が完全に消滅したわけではない」という主張はバトラーにとって非常に大事なものである。

身体と精神、触発と相互依存

ここからの議論には私はついていけなかったし、上の主張とのつながりもよく分からなかった。スピノザを読んだことがないので仕方ないだろう。

バトラーが取り入れているスピノザの大まかな主張としては、
・身体は精神に対応して存在している。(精神のはたらきとして知覚する対象として身体が存在している)
・「触発」を通じて身体と身体は関係しあっていて、身体は触発すると同時に触発される。

全然よく分からないが、身体と精神が不可分でありそれらが互いを基盤として立脚していること、身体の間に生じる触発が身体の内部構造に変化をもたらす、ということであっているのかな…。
ここの議論は、バトラーがジェンダー学の学者であることを忘れると本当によくわからなくなる。

そしてバトラーは冒頭の「生きる望み、善き生」の話に戻ってくる。
「人間の本質は、その存在のうちで存続し、自己を保存することにある。」
そして存続することが触発されることと無関係ではない以上、触発される=その人の社会的条件は存続の前提条件であり、さらには生きようという望みに影響を与える

…などなど。本当に難しくて私には分からないので飛ばす。もっと具体的な話にしよう。

マイノリティにとっての生

LGBTQの人々にとって、LGBTQの生を生きられるものにしようという社会運動によって、個人のうちにある欲望を肯定できるようになり、それはつまり「自分の存在のなかで存続する」ということを可能にした。

このように「いかに善く生きるか」という倫理的な問いは、私たちが切っても切れない関係の間に置かれているために社会的な問いとなる

同時に、社会的な問いとして存続を語る時、私たちは喪失についても考えることになる。
私たちが起こす行動は、それに先行する働きかけから独立しえない。
この働きかけの一つとして喪失が与える影響は多くを占めるだろう。
それは戦争による死かもしれないし、親しいものとの別離かもしれない。
何にせよ、何らかの破壊による喪失に私たちが触発されるとすれば、それは緊急性を帯びた、切実なものなのである。

「善き生を追求する可能性と、自分の存在のうちで存続する可能性が全ての人に保障されるような民主主義的世界であるためにどうすればよいのか」
「私たちが行動するように働きかけてくる世界とはどのようなものか」


これらのバトラーの問いはずっと問われ続けるだろう。

難しい…

この文章が講演の書き起こしであり、話された言葉だったので余計に理解しづらかった。話の流れがあまりちゃんと構造化されていなかった。

それでも私がバトラーを初めて読んだ文章として非常に共感したのは、
社会構造と個人の生というのは不可分でお互いに溶けあっていて、
社会構造によって生の価値が損なわれるということが起こってしまっている、
という問題意識である。

私はふだんこの事実をかえりみては、絶望して悲しくなっているが、
バトラーを学ぶことは少なくともLGBTQの分野でそれをどう乗り越えていったのかを知り、
それをどう応用することができるのか知ることにつながるだろう。

もっとバトラーを学びたくなった。

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