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『当事者研究』ってよく聞くけど何? 改めて学んでみた(3)

私の大好きなケアをひらくシリーズの本!
よく耳にするけどちゃんとは知らない、「当事者研究」について改めて学んでみました、第3弾
私がお世話になった池田喬先生による、現象学と当事者研究の深い関わりについて。

ちなみに第2弾はこちら。

3章は難しかった

池田喬先生は現象学の先生で、私も駒場時代の選択科目で現象学のさわりを学んだ。
池田先生による3章は、当事者研究の現象学的側面について解説している。……というよりは、「当事者研究が本質的に現象学的であり、現象学がお本質的に当事者研究的だ」という言葉のほうが先生の主張に近いかな。

と真面目に書くと難しそうだし、実際難しかった。
けどめちゃくちゃおもしろい……!!
「難しい」といっても、その難しさは「先生が現象学に関する広く深い知識に基づいてこの文章を書いている」という所にあって、
読みすすめていくにしたがってだんだん概念を理解できるようになってくるので、先生の深い洞察にどんどんどんどん吸い込まれていった。

当事者研究と現象学が似ている、というのはどういうことか

わかりやすく言えば、2つとも、同じような批判を各界から浴びるのである。
「客観性がないじゃないか」
と。

しかし、特に「人の体験」において客観性とはなんだろうか。
例えば、「幻聴を聞く」という体験において客観性とはなんだろうか。
客観性。
客観性とはその字の通り「外から観察できる」こと、そして「その観察が多数で一致する」ことに負っている。しかし、幻聴などの精神症状を外から記述することなどなかなか難しいのである。
したがって、統合失調症などの病気が本質的に「主観的な体験」(by フリス)である以上、
病気の記述に客観性を求めるのには限界があり、
(かりそめの(といったらそれはそれで問題だが))客観性により打ち立ててきた精神医学は病者の<現実>(≒主観)と乖離している可能性もあるのだ。
(ここらへんの議論はこのように略してしまうとたいへん粗くなる)

そこで、「人の体験に関することはその人の主観/語りを大事にしよう」という気持ちで行われているのが、現象学であり、当事者研究である。

それで本当に「研究」として成り立つの?

しかし、その「語り」を収集しただけではなんの力も持たない。
なぜなら、これらは「研究」として他者にシェアし、財産として役立てるために行われている営みだからである。
そのようにするためには、語りの「収集」だけでなく「分析/解釈」というステップが必要だ。
この「分析/解釈」を、従来の現象学では(当然)研究者が行ってきたのだが、それも当事者がやることで<現実>からの乖離をより減らそう、という取り組みが当事者研究である。

と、ここまで<現実>(≒主観)が大事だ、みたいな話になったが、
とはいえ当事者研究が研究として成り立つためには他人にシェアできる必要がある。すなわち、「ある程度の客観性」は必要ということだ。

「ある程度の客観性」とは、共同的に行われる分析/解釈のプロセスによって、たくさんの語りの中にひそむ「普遍的なパターン」を見出すことにほかならない。

ここでいう「普遍的なパターン」を見出すことは、すべての個人の体験を一般化することとは違う
ここには現象学で言う「間身体性」と近いものが潜んでいる。

間身体性とは何か


例えば、「私」が遠くのビルを眺める時、「私」はそれがビルの絵が書いてある板が立っているのではなく、それがビルであることを確信している。
それは、「私」が無意識に、「私」と違う所に立っている「誰か」は別の角度のそのビルを見ることができる、と想定しているからである。
(説明が難しい…。私はこれを本当に理解しているのか怪しい)

すなわち、「私」は何か物事をみる時に、私と似た図式で知覚するたくさんの「誰か」の身体を前提としているのである。

当事者研究をする「当事者」はマイノリティ的身体(≒マジョリティとは違った知覚の図式をとる)を持つがゆえに、
この「誰か」による前提を前提とすることが出来ずに、つながりを失っている。
そこで、似たような図式で知覚する人々で集まって、共同的に前提をたちあげ、つながりを取り戻そうとする試みが当事者研究である。

同じでも違うでもなく

ここで重要なのが、「似たような」というところである。
綾屋&熊谷はこれを「同じでも違うでもなく」と表現している。

同じ病名を持つ当事者であっても同一化を迫ることは言うまでもなく危険である。それは、従来の専門家によるカテゴリー化と当事者研究を何ら変わらないものに陥らせてしまう。

したがって、「全く同じ」ではないけど「全然違う」でもないよね、という似たようなものでありながら多様な視点を留保することが非常に大切なのである。

このような姿勢をこれから当事者研究がどのように担保していくのか、非常に楽しみだ。
人間が処理できる情報量には限界があるためになされてきたのが「カテゴリー化」である。この殻を当事者研究はこれからもどのように破っていくのだろうか。
そしてまた、当事者研究にはマイノリティ問題でよく言われる「代表性」の問題をはらんでいる。この問題も、「同じでもなく違うでもなく」の浸透がキーとなるだろう

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