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人を信じられないことは

僕はほら吹きだった

何か大きなことを成し遂げた訳でもなく、お金や地位といったポジションを手にしているわけでもありませんでした。だけど、僕はあたかも成功したかのように、他人に振舞うのでした。どこか偉そうで、上から目線でものを言っていたのです。何者でもない自分を、誰かが、認めてくれるはずもないと思い込んでいましたからでした。

自分に欠けている部分が気になって仕方ありませんでした。その部分を人に見られてしまうと、嫌われてしまうのではないかと不安だったからです。誰からも好かれたいと、欲深さを持っていたのにも関わらずに、誰よりも臆病だったのでした。

きっとそう言った思考が、もたらした影響は、徐々に自信を失わせるものだったのです。そうした僕は、そんな弱々しい自分をごまかすために自分を大きく見せるようになったのだと思うのです。

最初はささいなことだったのですが、不安が大きくなるにつれて、見せかけの僕も大きくなっていくのでした。

それは、苦しいものでした。だって、自分が何よりも嘘だって分っていたからでした。そんなんじゃない。情けなくもなりましたし、みじめにもなりました。


人を疑ってきた理由

僕のような思考である根本にあるものは、自分を自分が認められなかったことが大きな原因となっています。完璧な自分でないと、自分を愛することが出来なかったのです。欠点を持っている自分は嫌われるかもしれないというのは、僕自身が欠点のある自分を嫌いだったからなのです。

そして、自分を認められないし愛せないから、欠点のある自分は愛させるべきではないと感じてしまうのです。もし、どんな自分でも愛されるべき存在なんだ。そう思うことが出来ていたのなら、ありのままの自分を他人に見せることが出来たはずです。

僕は愛されない存在なんだと決めつけていたから、相手が僕に向けてくれる優しさを信用できずに疑ってしまったです。そんなはずあるわけないないじゃないかって。僕は不安に襲われてしまい、不安から支配されてしまったのでした。

見栄を張りたくて、嘘をつく自分なんか、信用できるはずもありません。ほら吹きで嘘ばかりを並べて、偉そうにしているやつなんか。そんなダメでどうしようもない自分を、認めてくれる人や優しく声をかけてくれる人もまた信用できません。絶対に何か裏があるから、そういった風にできるものだと。

そうなってしまったら、想像できる通りに、人間関係は雪だるま式に壊れてしまったし、上手くいくものにはなりませんでした。

全ては、自分を認められずに愛することができないことが原因だということです。

自分を愛することで

この経験から、自分は愛される価値のある人間だと認めることは、人間関係の基礎を確かなものにしてくれるものだと学ぶことができました。人は皆、それはどことなく分っていて、自分を認めたくて、自分を愛したくて、日々、必死に努力するものなのです。身だしなみを意識し、話す言葉に気を遣い、自分の本音を押し殺し、みんなと同じ意見になるように努めるのです。

しかしそれでは、自分を愛することが出来ずに、人間関係で悩んでいます。それは、努力しないと自分を愛せないということが前提になっているからです。自分の欠点を直さないと、自分は自分を愛することができないと、それが自分を愛する方程式に導いてしまうのです。

つまり、他人目線で物事を判断しているからなのです。大事にする必要があるのは、どうしたら、自分は心地が良いのか、どうしたら、自分を喜ばすことが出来るのかという、自分目線で自分を認めることでした。

僕は、自分に喜んでもらえるように、月に一度、自分自身にプレゼントを用意するようにしました。誰かを好きになると、色々プレゼントしたくなるものですし、その人の喜ぶ顔がみたいからです。その時の、気持ちはかけがえのないものです。プレゼントを考えることで、自分への関心を持つこともできます。それに、その人のことを認めているからこそ、大事に思え、プレゼントしようと思い立つ訳でもあります。

こんな行動が、一体なんの為になるのかと思う時もありました。その時は、自分を大切に出来ずに、投げやりになっていた時でした。

このことからも、自分へのプレゼントは、自分を大切にするための最高のワークだとも言えるし、ポジティブな習慣になり得ます。何より、楽しいです。

自分を認め愛するために、努力は必要です。だけど、その努力は、楽しんでやるものだと、僕は感じています。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー

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