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【駄目な人の話】料理ができるって能力なんです。

15歳で寮生活を始めた時、とにかく自炊ができなかった。土日は寮の食事が出ないので、自分でなんとかしなければならないのに、何も知らなかった。

ゆで卵くらいなら作れたけれど、卵だけでは生きていけない。炊事道具をどこで揃えるか、値段が総額でいくらくらいになるのかもわからない。結局、自分では何もしなかった。

だから、今思えば贅沢なことだけれど、しょっちゅうのように外食をした。悪いことに、それまでファーストフードの店に縁がなく(注文のシステムがよくわからない)、行くところはいつも「ちゃんとした」場所でなければならなかった。黙って座っていれば、店員がメニューを持ってきてくれて、注文と会計以外は何もしなくてもいいような。

時には大人っぽい店で、店員に疎まれながら息苦しい思いで料理を口に運んだ。「だって私は座っていれば料理が出てくるって体験しかしてないし、今さら自分で作るなんてできないんです」と情けない言い訳を心の中で繰り返した。

「料理なんて覚えればいいのに」

たぶん多くの人はそう言う。そしてそこに大きな溝があるのだ。そもそも自分でできるようになろう、という発想も、その知識にどうやってアクセスするのかを明白に知っていれば、学ぶことのハードルは何も高くない。

だけど皆目見当のつかない状態だと、今までに得た知識(「ちゃんとした店に行けば何もしないで済む」)だけでしか動けない。結果的に、場違いな息苦しさと申し訳なさに苛まれながらもそこを抜けられない。

(少し後になって「コンビニで弁当を買う」ということを覚えてからは、毎週セブンイレブンに通っていた。大丈夫か)

学ぶ意欲があり、学ぶことができるということは、本当はとても大きなことなのだ。何もできない人間は、予想を超えて何もできない。動かなければならないときにも動き方を知らない。事態をどうにかするために動ける、ということは、実際にはものすごく有能だってことなのだ。

その後、一人暮らしを始めるようになって、やっと料理をするようになった。モヤシを腐らせたり、パスタを食べ続けて生理が止まったり、肉だけのハンバーグを作ったりしながら、なんとか望まない食生活とはさようならできるようになった。

自活能力の高い人にしてみれば「本当にそんな人いるの?」って感じだろう。います。そして、自分のご飯を自分で作れるというそれだけのことを、能力があると思っていいんだよってことを伝えたい。

そういえば、自炊ができずに出前を取り続けて生活費をすべて失って亡くなった方の話も聞いたことがあります。料理ができるって、大事。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。