翻訳は虚構装置

翻訳で読むのと、原文で読むの。それぞれが全く別の体験であることを、またもや実感している。今日はアメリカ現代文学の旗手、ポール・オースターの小説を原文で読んでいた。題名は『オラクル・ナイト』、舞台は現代のニューヨークだ。

翻訳で読むと、それはいつもわずかに不自然な日本語であるせいで、「これは虚構の話なんだ」という実感が強くなる。だから、どんな手痛い出来事が書かれていても「所詮フィクション」という思いで楽しく読める。アメリカっぽい言い回し、出てくるお店の名前、米国製ジョーク、何もかもが現代日本からかけ離れていて、外国の出来事というより、どこか次元の違うお伽話みたいに思える。

だけど、英語で読むと感覚が違う。現代アメリカの持つ暴力や薬物の問題、法なき場所の無秩序が生々しく書かれていて、おとぎ話感が全然ない。純粋な小説というより、現実と溶け合い重なり合っている準現実なのだという雰囲気が強くなる。日本語で読んでいるときの自分が鈍いだけなのかもしれないけれど、言語によってこうも感覚が違うのか……と驚いた。

どうやら翻訳には「これは遠い国のお話です」と読者に思わせる働きがあるらしい。日本語で書かれていながら、あまり日本的ではない文章が連なる。例えば『オラクル・ナイト』に出てくるこんな会話。

「光栄に思うべきなんだろうね。でもまだ合点が行かない。何で僕なんだ?というか、何で僕にこの仕事を?」
「心配しなくていいわよ。私が電話して断っておくから」
「二日ばかり考えさせてくれないか。本を読んでみるから。ひょっとしたら、何か面白いアイデアが湧くかも」

ポール・オースター『オラクル・ナイト』柴田元幸訳、新潮文庫、平成28年、p.162

日本人のリアルな会話としては、ちょっと違和感があるな……という感じ。どこか堅いというか、耳で聞かれるためではなく、目で追って読まれるための会話に思える。「なんで僕にこの仕事を?」という質問の仕方とか、日本女性の日常会話では実際あまり聞かない「~わよ」という言い回しとか、男性の「~くれないか」という言い方。それは翻訳ならではの書き言葉であって、日本語でありながら、生々しい日常会話とは距離を取っている、不思議な日本語だ。外国語との間にある「翻訳された日本語」は、それ自体がひとつの言語なのかもしれない。

翻訳は、そんな風に魔法をかける力がある。「これはフィクションですよ」と伝える、物語が着る衣装。原文を読めばOKというものではなく、訳で楽しむほうがより純粋に小説を小説として楽しめることがある。今日はそんなことを悟った一日だった。


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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。