楽しみ方の向き不向き

今日は詞集を持って外出した。「詩集」の誤字ではない。歌詞を集めたもので、高校生の時に読んで「言語表現ってこんなに自由でいいんだ」と目を開かせてくれた一冊だ。そして、曲を聴くよりも歌詞を詩として楽しむ方が、自分の性に合っていると教えてくれた本でもある。

敢えて分類するなら、自分は「言語優位」の人間なのだと思う。読み書きの回路に恵まれている一方で、音楽を聴いたり、音の繊細な違いを感じ取ることには向いていない。こっちの「音」に敏感な人は、仮に「聴覚優位」としておこう。さらに世の中には、目で見て感じ、楽しむタイプもいるので、この人たちを仮に「視覚優位」とする。こういう人たちは、視覚による回路が発達していて、舞台芸術や絵画、映像作品のビジュアルに深くはまることができる。

そう考えると、自分が何かを楽しめないことについて説明ができる。例えば、視覚優位に人に比べて舞台芸術を楽しめないのは、あれが純粋な言語芸術ではなく、外面を作り上げる芸術だから無理もないという気になる。舞台好きな人たちと話していると、
「やっぱり、ああいうのは生で楽しまなきゃダメ。あのライブの舞台の楽しみがわからないなんて!」
などという台詞が飛び出して来て、舞台を見るより本を読んでいたい自分は肩身の狭い思いをすることがあるのだけれど、そもそも持っている傾向が違うのだと思うと楽になる。

あるいは、音楽好きな聴覚優位の人から
「なんであのグルーヴの良さがわからないのか、わからない」
と言われても「私は言語優位だから」と返せる。実際、ピアノの旋律の微妙な違いや、ドラムの妙技、ギターの情感というものは、私はものすごく卓越した人のそれでなければわからない。いや、卓越していてもわからないかもしれない。視覚と聴覚の芸術表現については、あまり繊細さを持ち合わせていないのだ。

それは「だから、自分が得意とする分野以外は楽しめない」と言っているわけではない。私だって音楽を楽しみはするし、同じ曲での異なるアレンジを聴いて、その違いを面白がることもある。目で見て綺麗なものは純粋に好きだし、繰り返し見ていれば、わずかな差異にも気づくようになる。そこはトレーニング次第だ。

ただ、持って生まれた回路の違いというのはきっとあって、だから誰かと同じように何かを楽しもうとしても、できない場合がある。そういうときは、「自分は別の分野を楽しむ才能があるのだ」と考えるのがいいと思う。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。