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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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顔に傷あるけしぼうず

この note にやって来て約二か月、ずっと自分の記憶の整理をしていたように思う。 母の半生は兄の出生を悔恨し続け、私には「それでいいのか、あなたの人生をそんなことだけで終わらせてしまっていいのか」との疑問を拭うことはなかった。 父はお気楽に見えた、当時高額な兄の治療費を稼ぐと長く海外に勤務し、すべては母に任せきりであった。 父もゼネコンにいた電気・機械のプロであった。 長い時間は人の記憶をぼやかし、曖昧にさせる。 それは良いこと、悪いことの両面を持ち合わせる。 そしてそれ

もう一人の森の話

前回の記事で高校時代の同級生の森のことについて書いたが、実はもう一人森がいた。 森典幸(もりのりゆき)、いつもノリと呼んでいた。たぶん私の親友と言える男だった。 そして彼も真面目な男だった。一緒に通った高校は豊橋市と豊川市の境あたりの田んぼの真ん中の新設校だった。私の通学路は旧国道1号線、東海道を一直線、自宅から10分ほどの道のりだった。ノリの自宅は私の家からさらに20分ほど離れた東海道五十三次の赤坂の宿、御油の松並木を通り過ぎて少し行ったくらいだった。違うクラブに所属して

咲けば散る、春は去る、

清明、子どもの頃からまあまあ漢字が好きである。 この時期に春は私たちに清らかな生の喜びを振りまいてくれる。  日に日に陽は明るさを増し季節の移ろう躍動を感じさせてくれる。 清明はそんなこの時期にちょうどよい文字である。 不思議である。毎年この時期を通過しているのだがこの喜びや躍動感が薄れ行くことはない。それどころか歳とともにそれは濃さを増すこともあるように思えるのである。  高校一年の同級生に森清明という男がいた。明るく快活な男であった。真面目で嘘をつかずクラスで彼を厭う者

風邪ひきの思考

なんと、不覚というか、珍しく風邪を引いてしまいました。 熱は出るは、咳は出る。身体は重くやる気は失せ、仕方なくずっと寝ていました。自分でも驚くほど寝ていました。深く深く寝ていました。 飼い猫のトラが、まだ愛知で近所の番町猫だった頃に犬と喧嘩して、大けがをして帰って来ました。傷をブーニャンが舐め、トラは死んだように眠り続けました。そして二日後には復活しました。そんな二匹の姿を思い出しながら深い眠りに落ちていました。 精神論を健康に結びつけることはしないのですが、適度の緊張は

人を待つ時間

昨夜の関西はぐずぐずの雨模様だった。 たまってしまった仕事を朝から片付け、夕方人と会うためにとある場所まで足を運んだ。久しぶりにお会いする方、遅れるわけにはいかず余裕を持って出かけたが、あまりに早くついてしまった。初めて降りる駅であった。 初めての町に行ったら必ず駅の周辺をウロウロすることにしている。ゼネコン営業マン時代からのクセである。町にはそれぞれの特性がある。歴史があっての町の成り立ちがある。住んだ人たちによって作られるのが町であろうが、町が住人を育てるようにも思う。

一日の終わりに私が思ったこと

昨晩は寒かった。 休みなのに珍しく酒を飲むこともなく、部屋でパソコンに向かい出してのことだった。 明日は始発に乗る用事がある。出来るだけ早くベッドに入ろうと思ったがなんとなくテレビが気になり、スポーツニュースだけ見ようと思ったのであるが、たまたま合わせたチャンネルで「天使にラブソングを」をやっていた。 テレビではあるが久しぶりに映画に見入ってしまい気がつけば10時となり、あわあわとパソコンにまた向かったのである。 ああ、こんなことが昔はよくあったな。日曜洋画劇場で淀川長治の

あの頃見上げた青空

もう四年も前のことである。 コロナがやって来る前のことだった。 何もないことが幸せであると振り返り気づかせてくれる時期であった。 合気道の稽古を行っているのは大阪市阿倍野区にある大阪市が再開発を行ったエリア内に建てられた市が分譲した住宅棟の隣の商業棟のレンタルスタジオである。本来であれば、畳の道場で皆に稽古をしてもらいたいが現在では各区に設けられた大阪市のスポーツセンターの道場を定期的に使うことは不可能になってしまった。レンタルスタジオを借りることができただけ幸せなのである

孝行をしたい時には親は無く

こんな言い回しが今の時代でも伝わっているぐらいだから、たぶん私だけの体験じゃないのだろう。 周りからは孝行息子と言われながらも、両親が元気な頃には盆も正月も仕事を理由に実家に寄りつきもしないくせに、親父の居ない留守を狙ってこっそり母に溜めた祇園の飲み屋のつけを無心しに帰ったこともある。 その頃は親が死ぬなんて考えたことも無かった。 でも時間は誰にも平等で、両親の老いも例外ではなかった。 未来永劫なんて言葉はあり得ず誰もが老い朽ち果てていく。朽ち果ていく両親を見ていながら何も出

この一か月、若きも老いも夢を持ち

日曜日、合気道の所属会派の高段位昇段者(五、六、七段)の年に一度の免状授与式と披露演武、そのあと場所を変えて難波のホテルで総会と新年会があった。 毎年お決まりの出来るものなら出たくない面倒くさい集まりである。 しかしながら、この小さな合気道の世界の中でも社会で生きる私たちの義務と義理と同様でそんな気持ちはおくびにも出さないで普段の私を演じなければならないのである。 総会・新年会の会場に移動する途中、大学を卒業してまだ間もない若い社会人と話しをした。彼の合気道にかける夢とまだ汗

日記のような、びぼーろくのような(2024.1.17 冬のある日に思う私の目標)

冬枯れの京都西山大原野、夜勤明けの朝にNPO法人京都発・竹・流域環境ネットへ向かった。 社会問題ともなっている放置竹林整備を目的に運営しているNPOである。手伝いに通いだしてもう10年にもなるであろうか。実は私はここで竹の1本も切ったことがない。私の一番の目的はここの理事長への恩返しなのである。 理事長は私が20年ほど前までやっていたゼネコン営業マン時代に京都府下で限りなく世話になった方である。当時理事長は役所勤めの公人であり、民間の営業マンである私などと付き合いをしてはな

ラジオを聴き、そして思い出した

もう30年も前の記憶である。色褪せたその記憶は今なお私の頭のなかに残り、同じような田舎道を車で走るといつも思い出す。当時私は奈良県北部、法隆寺まで車で15分くらいのところに住んでいた。そしてある縁から三重県志摩の漁師町へ年に何度か通っていた。いつしかその行き来の道は私にはすっかり見慣れた緑多い愛すべき風景となり、四季の緑の濃さの違いや咲く花々の淡い赤や黄の彩りに心を許すようになっていた。 その時は小学生の息子を助手席に座らせて自宅に向かい走っていた。三重の県境から京都府下に

「夢のつづき」のつづき

もともと夢を憶えていないほうだから、休みの昨日、昼寝をしていて見た夢は初夢だったのであろうか。 寝汗をかいて目が覚めた。 私は列車のボックスシートに独り座りボンヤリ外を眺めていた。 海岸線を走る列車の右手には月の光を反射する白銀の山々がそそり立ち月の明かりばかりか私たちのまわりに渦巻く嘘も生き辛さも跳ね返すかのような白い輝きを放っていた。 左手には漆黒の海が横たわり唸り声をあげてうねる波は白い輝きが跳ね返すすべてを吸い込むようであった。 そして私には分かった。 怖い、痛い

さて、今年も始まった

正月を迎え、年は新しく変わった。深い感慨も無く日付が変わったように思う。 年賀状を書かなくなって、もうしばらく経つのに届く年賀状に申し訳なさを感じ何本か電話を入れ「まだ生きている」と報告する。 同じように何本か「お元気ですか」と電話が来た。メールもラインも来た。私よりずいぶん年上の先輩方からである。近況をお聞きし、お礼を述べて電話を切った。メールもラインも返事をした。 80を過ぎてラインを時々くれる京都でずいぶん世話になった不動産屋の元専務には大事な息子がいた。親父と同じ業界

冬の雨を降らせていた

まだ明けきらぬ雨の朝、一人街を歩み行く。 街路灯は濡れた歩道を照らし、物音は雨粒の独り言のみである。 人のおらぬ街を歩み、降る雨に生を感じさせられる。 冷たくない冬の雨、もうすぐクリスマスがやって来るというのに冷たくない雨に頬をやる。 遠い遠いその昔、まだ私が空気中のチリだった頃、冬の雨は神様が降らしていた。 冬の雨の神様は人間たちにゆっくり休む時間を与えていた。 春まく種は陽を浴びた肥沃な大地で芽吹き、強い夏の雨はその芽を厳しく強く育てた。 花が咲き実を結び心地よい乾いた秋