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自分を無条件に好きになれた部分

私は自分の字が好きだ。上手でもないし、何ならへたうまの部類でもない。言葉にするのならきっと癖字というものだ。「読みにくい」と言われることもある。「もっとちゃんと書けば」と注意されることもある。けどそこまで困らないのなら別にこれでいいと思っている。もし誰かに見せるものなら少しだけ気合を入れればいいし、とりあえず支障なく読めればいいと思っている。

例えば誰が何を言おうと「私は別に好きだし」となる。たまに読み返していて下手だと思うこともあるけど、ほとんどへこまない。全て自分が書いた愛おしい字である。昨年年賀状を書いている時ですらも(うわ、字も曲がってるしやっぱ下手だな……まあいいや、しょうがない。みんな毎年ごめん)とちょっとだけ反省するくらいだった。


きっとこの感覚は自己肯定感に近いと思った。それは誰に何を言われても無条件に自分を好きでいるということだ。けど文章はそうはならない。他の人に見せることを意識してちゃんと書かなくてはとなる。読みやすい工夫をしたりとある程度きれいに見せたいと考えるようになる。その結果自分が書いた文章でも自分だけのものでなくなる。

これは悪い意味とは限らない。ただ自分のための文章なら自分自身しか見られない日記に書いておけばいいことで、誰かに見せたい文章なら化粧したりおしゃれしたり背伸びしたりしたくなるものだ。自分を飾り付けようとするのと同じだ。身体にいいものを食べて体形もキープしたいと努力することと似ていると思う。

だけど何があっても「私はこれでいいし」と思っているとそれ以上努力しなくなってしまう可能性もある。一方「私は努力しないといけない」と焦っていると、いつまでも際限なく頑張り続けないといけなくなる人もいる。そのさじ加減は正直なところ難しいことだと思う。



一つ言えるのはそのキーワードの中に、自分だけのものか他人にも見せるものかということが含まれているのかもしれないということだ。私は自筆をほぼ人に見せない状況で暮らしているので、字について他人に何か言われることが少ない。

もし私が自筆を誰かに見られる環境にいて、逆に文章を誰にも見られない環境にいたのならもっと違ったのかもしれないと思う。他人の目を意識することはプラスになることもあればマイナスになることもある。

結局現状をどう受け取るかということなのだろうと思う。もちろん自分自身がもっと成長したいと願い、誰かを意識せずとも努力できる人もいるのだろう。そういう人は本当にすごい。その向上心の高さを尊敬してしまう。




そういえば自分の字を褒めてもらった経験が小学生の時にあったのを思い出した。習字の授業で先生に褒められて展示に出してもらったことが一度だけあったのだ。家族とそっと覗きに行った会場では、もっとうまい人がたくさんいる中で緊張しながらも一生懸命書いた半紙がちゃんと貼られていた。それまで私は自分の字が好きでも嫌いでもなかったが、何だか誇らしく嬉しかった。

もしかしたらそれがきっかけだったのかもしれない。






ついに2024年になりましたね。これからも自分らしく書いていこうと思いますのでどうかよろしくお願い致します。

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