見出し画像

長安の春、酒仙の春

 その詩人は、月と酒をこよなく愛した。
 そしてある時、水面に映る月を見て、酒に酔いながら、
 「月が掴めるぞ!」
 と叫んで、船から水に落ちて、溺れ死んだ。
 
 伝説である。実際はそんな死に方はしていない。病死だ。
 だが、そう言われるだけの人ではあった。
 酒仙とも言われ、詩人なのか、酔っ払いなのか、判然としなかった。
 名は李白(注136)と言う。こんな詩がある。代表作だ。
 
 兩人對酌山花開(二人が相対して酌をすると、山の花が咲く)
 一杯一杯復一杯(いっぱい、いっぱい、もういっぱい)
 我醉欲眠卿且去(我は酔い、眠くなった。卿は帰りなさい)
 明朝有意抱琴來(明朝その気があれば、琴を抱いて来い)(注137)
 
 753年、女の童は呆れていた。ここは江南の酒家だ。夜の二階席だ。
 「惜しい男を亡くした」
 その酔っ払いは独り、嘆いていた。女の童の姿は人に見えていない。
 「朝衡はいい奴だった」
 机の上には、倒れた白磁の酒器と杯が散らばる。
 「……確か帰国されたのですよね」
 女の童は朝衡を知っている。帰りの遣唐使で日本に向かった。
 「ああ、だが南海で船が沈んだと聞いた」
 酔っ払いがそう言うと、女の童は遠くを見た。
 いや、死んでいない。まだ辛うじて生きている。
 だが酒仙は、その場で詩を読み上げた。
 
 日本晁卿辞帝都(日本の朝衡は、帝都長安を離れ、)
 征帆一片遶蓬壷(帆を張った舟は、蓬莱の島々を巡って行った。)
 明月不帰沈碧海(明月は碧い海に沈んで帰らず、)
 白雲愁色満蒼梧(白雲が浮かび、愁いが蒼梧に満ちている。)(注138)
 
 李白は、典型的なアウトローだった。だが才能があった。
 この時代の人間で、科挙を受験せず、士官を志した。
 それがどれほど、困難な道なのか、今ではよく分からない。
 だが李白は、自らを青蓮居士と号し、各地を遊歴した。
 詩人で食っていけるという事自体凄い。現代でも可能だろうか。
 遊歴の効果どうか分からないが、唐の皇帝、玄宗に拾われた。
 翰林供奉(かんりんぐぶ)という役職で、宮廷に入った。
 才能は才能を呼ぶのかも知れない。
 少なくとも、玄宗には、音楽の相対音感があった。
 楽師が奏でる音を正確に捉え、間違いまで指摘している。
 それはともかく、李白を天子付きの文学侍従とした。
 この人事に、嫉妬しない役人がいない筈がない。
 宦官たちに憎まれて、宮廷を追い出されて、再び放浪の旅に出た。
 
 「やっぱり宮仕えは性に合わない」
 李白はそう言った。月下の長安だ。深夜でも通りに人は歩いている。
 「……あれだけ酔って暴れて、よく言いますね」
 女の童は呆れていた。742年の秋に宮廷に入り、744年の春に出ている。
 「宦官どもとは、酒は呑めん」
 夜の舟遊びで、酒に酔い、月を掴もうとして川に落ちる。
 「……アレは迷惑ですよ。毎回やらないで下さい」
 女の童がジト眼で、李白を見た。
 「お約束の芸だよ。自称臣是酒中仙……」
 「……飲中八仙(いんちゅうはっせん)ですか」
 女の童が、杜甫(注139)の詩を挙げた。李白は笑った。
 「李白一斗詩百篇」
 杜甫によれば、李白は一斗の酒を呑めば、百篇の詩を吐き出す。
 「俺は酒を呑めば、幾らでも詩を吐き出せるらしいな」
 漢詩製造マシンだ。燃料は酒だ。酒はガソリンだ。
 「という訳で、長安を離れる前に、呑むぞ」
 李白がそう言うと、お供の女の童は呆れた。
 「……また天子様のお呼びが掛かりますよ」
 「そんなの放って置け」
 李白は宮廷を追い出されが、玄宗に嫌われた訳ではない。
 嫌われたのは宦官たちからだ。雇い主からクビとは言われていない。
 だがこのまま帰らなければ、職務放棄で事実上の辞職だ。
 「……天子呼来不上船」(天子が呼びに来ても、船に乗ろうとはしない)
 「長安市上酒家眠」(長安で宮仕えをしていた時、酒場で眠り込んだ)
 二人は笑った。杜甫は面白い。今度会おう。
 
 酔って酒家の机に突っ伏したが、二階の個室に運ばれた。
 女の童が、人を呼んでくれたのかも知れない。
 遠く聞こえる階下の騒がしさが心地よい。
 ふと寝台の上で、若い頃に作った詩を思い出した。
 
 牀前看月光(夜、寝台の前に射し込む月光を見る)
 疑是地上霜(これは地上の霜かではないかと疑う)
 擧頭望山月(頭を挙げて、山に上る月を望み)
 低頭思故郷(頭を低れて、故郷を思う)(注140)
 
 今もこうして、床に反射する月光を見ていると、時を忘れる。
 若い頃は良かった。野望があった。夢があった。希望があった。
 だが今はどうだろう。念願の宮仕えは、2年で終わった。
 一体何のための人生だったのか。これからどうするのか?
 詩を作るのは、本能でしかない。宮仕えとは本質的に異なる。
 自分は、高力士(注141)のような筋金入りの宮廷人にはなれない。
 だがあんな風になりたかった訳じゃない。
 楊貴妃に詩を幾つか奉げた。大唐の夢を謳った。
 今もあの中で、二人は愛を語らっているのだろうか。
 だが、日本から来た友人が、アレはおかしいと言っていた。
 そうかもしれない。多分、そうなのだろう。安禄山の件もある。
 だが朝衡は分かっていない。やはり日本人だ。唐の人じゃない。
 一瞬ではあったが、あの中で見たものは、紛れもなく、大唐だ。
 自分は、大唐の夢を謳いたくて、あの中に惹き寄せられたのではないか。
 そこで酒を呑み、息を吐くように、詩作をする。
 詩仙の心は酒泉だ。こんこんと湧き出て来る酒を酌み尽くせ。
 だがあの中は、魔窟でもあった。則天武后の時からそうだった。
 今思うと、何であんな処に、惹き寄せられたのかとも思う。
 「桃源郷を見たかった」
 李白は独り呟いた。詩人、仙人、聖者が棲み、修行する場だ。
 「……楊貴妃の中にそれを見たのですか?」
 女の童が現われた。もしかしたら、玄牝(げんびん)かも知れない。
 「いや、どうやら違ったようだ。私は幻を見た」
 「……詩を捧げたのに?」
 「違和感があった。だが最初にそれを指摘したのは朝衡だ」
 女の童は、李白の言葉を待った。
 「彼は楊貴妃に、妖魔が憑いていると言っていた」
 玄宗が狂い、唐が傾いた。殷でもあった事だ。妲己(だっき)だ。
 「……九尾の狐ですね」
 女の童がそう言うと、李白も頷いた。
 「日本から来た友人は、明らかに霊力があった」
 彼の一族は特別だろう。陰陽の業に長けている。
 「私も神仙の方術を嗜むが、彼ほどじゃない」
 「……あの方の子孫は、きっと活躍しますよ」
 女の童が、遠い眼をして言った。
 「だが我が友は死に、妖魔は鑑真と共に渡ったのだろう?」
 「……ええ、そのようですね」
 鑑真と妖魔の戦いは、遣唐使の中で決着が着かず、京の都で着くだろう。
 「もうあの中の事は忘れよう。これからどうすればいい?」
 「……風のままに、心のままに」
 女の童が答えた。自分はそうやって、永い時を渡ってきた。
 「そうだな。人生は幻の如く。大唐の夢は潰えた」
 それが長安の春、酒仙の春だった。春の小川は遠かった。

 注136 李白(りはく)(701~762年) 唐 詩仙、酒仙の二つ名を持つ
 注137 『山中対酌』(さんちゅうたいしゃくす)李白作
 注138 『哭晁卿衡』(ちょうけいこうをこくす)李白作
 注139 杜甫(とほ)(712~770年) 唐 詩聖の二つ名を持つ
 注140 『靜夜思』(せいやし)李白作
 注141 高力士(690~762年) 則天武后から玄宗まで仕えた官吏、宦官

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺032

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?