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301/1096 夏はあと何回・・・?

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で301日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

301日目になった!今日はもう300日目台のわたしなんだ!(なにそれ
静かに嬉しい。200日目台よりもずっと心強い感じがする。100日目台って心細いものだったよなあ~と感じる。その時々の自分にはなんともなくても、あとから思えば自分のことながらよくやったなあ!と思うことがみなさんにもある思うけれど、ちょうどそんな気持ちになっている。

今日も人生の大切な大切な時間を使って書くのだ。
だから愛を込めるんだ!!気楽に、楽しくね!

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OH・・・わたしのような者でも、とりあえずは300日の継続が達成できるなんて、なんと意外なことだろうか。わたしは今日改めて改めて、人生の様々な瞬間のうち、もっともエキサイティングなのは自分に意外性を発見するときではないかと思った。

この毎日投稿にも何度も書いている通り、わたしは自分の予測をいつも軽々と裏切ってしまいたい気持ちでいる。予想通り、予測どおり、想定の範囲内、というところに落ち着いていなくていいと思っている。

それは多くの人にとって、たとえ実感していなくともきっと同じであろうと思う。今後の人生がすべて想定内で良いか、行く末をすべて予測することができるとしたらしたいか、と言われたらOKしない人がほとんどであろうと思うのだ。わかりきっているなんて嫌だ、知ってしまいたくない、と感じるものだと思う。

でもわたしたちは、日々のことは想定内で収まってほしいと願っている。予定通り、わかっている範囲、知っている自分で対応できること、ドキドキせずに済むことを祈る。これは生き抜くために自分を守る働きだから、もちろんそれが悪いわけではない。でも、そしてかつ、人生に驚くような変化がないことにうっすらと不満を抱えながら、日々が退屈だと不満をこぼしながら、歳を重ねていくのだ。そうしながら、どこかに叶わぬ夢を持ったまま生きている・・・・・・・・・・・

わたし自身にとって、わたしのそうした矛盾を吹き飛ばしてくれる一番の特効薬は、ここに何度も書いたことがある通り『死ぬ』ということについて考えてみたときに湧いてくるものをとことん徹底的に感じること、この一点に尽きると思う。

わたしは事故や災害に遭わずとも、あと何回か夏が来たら死ぬのだ。
もしかしたら、40回ほどの夏が経験できるのかも知れない。もしかしたら、あと1回かも知れない。毎年それは、カウントダウンされていく。
わたしは死ぬ。心臓が止まり、細胞が活動をやめて、すぐさま腐敗し始めて、わたしという人の営みは二度と起こらない。
どんなに願ったって泣いたって、その時が来たらこの青い星を去らねばならない。この身体を通して、葉っぱを触ったり、風を浴びたり、笑ったり、星を見たりすることは二度とできなくなるのだ。二度と。

わたしにとってわたしの人生は貴重なものだ。だからその人生が、わかりきったものでなくてもいいと、いつも思う。
悲しいことがあったとき、悲しみきればいいと思う。もしかしたらそれは、生きるわたしにとってとても悲しくても、死んだあとには文字通り死ぬほど愛しい経験として思い出されるのかも知れない。そう思うと、ネガティブなんてダメ、だなんてもったいなくて言えない気持ちになる。

肉体を持った自分が何かに怒ってぷりぷりしている姿は、死んだあとに思い出してみれば、それこそ肉体がなくとも涙がでるほど懐かしい経験なのかも知れない。若かりし頃の親との喧嘩が、親が亡くなったあとには死ぬほど愛しい経験に思えるように。
だから、怒る経験もまたいいじゃんかと思う。失敗したって、バカを見たって、それにムキになっているのは今の自分だけで、死んだあとにはそれがものすごく面白かったと言っちゃうのかも知れないと思う。今の生きているわたしには、それがわからない。

死んだあとの視点を持って自分を観ることも秘行のひとつだ。死んだと思ってみると、同じ経験に対してのジャッジが思い切り変わってしまう。これもなかなか面白いモノの見方ではないかな。

死んだあと、もちろんわたしがこのままわたしであるのかどうか、わたしにはわからない。でも、死んだあとに実際にどうなるかなんて重要ではない。
そこに確かな証拠がなくたって、自分を常に期間限定の存在、「いなくなるもの」として観るのは、わたしの心におおらかな余裕をもたらしてくれる。自分のあらゆる経験を、失敗はダメ、成功はいい、などというジャッジを捨てて並列に観ることのできる面白さがある。
だから、生きる術のひとつ、心の忍術として使ってみるぶんには、実際にどうなるのかについての証拠なんていらないのだ。

映画のシーンにおいて、嬉しいシーンと悲しいシーンとの間に、重要度の差はあるのだろうか。嬉しいことしかない人生を喜べるだろうか。悲しみとの対比がないまま、喜びだけを知ることができるだろうか。
映画で言えば、嬉しいシーンだけを残してしまうと、お話しがわからなくなってしまう。悲しいシーンがあるからこそ嬉しいシーンがある。では、どちらのほうが重要なのだろう・・・

社会的にきちんと生きられることは大切だ。けれども、そのために人生がつまらなくなってしまったら本末転倒だ・・
それを大切にしながらも、生きている間、めちゃくちゃ3次元らしい体験をしてきたな!と思いたいとわたしは思う。そう思うと、大きなショックも思い切り何かを失う経験も、悲し別れも日々の小さな切なさも、なんだか、ダメって言えなくなっちゃうから・・

人生をこの観点で観ることが自分にとって慣れ親しんだものとなると、他者のことを青い星の上の仲間だと思えるし、自分の間抜けなところまでがめんこいものに見えてくる。せっかく生きるなら、いつだってこのスケールで、いや、もっと大きな俯瞰力を発揮して人生を見てみたい。

我の視点よ観点よ、どんどん大きくなってみてくれ・・・!わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい。(昭和
そして今の自分の「まあわたしなんてこの程度かな」という弱気な予測なんかスカッと裏切って、面白い未来に驚こう!

というわけで今日は、死ぬことを考えてみることで、自分の人生へのジャッジを手放して、面白がってみるのっていいね!という、自分の好きなモノの見方のご紹介でありました。
わたしの人生に、あと夏は何回来るのだろう。
たとえ切なくてもいい。わたしは夏が好きだ・・・

それではまた、明日!!

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