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人間だから超新星になれないだけで

「不安なことがない」は「生きるのが楽しい」とイコールではないし、「生きていたくない」は「死にたい」とイコールではないし、「生んでくれたことへの感謝」と「生まれてよかった」は別物だし、大事にしたい人、悲しませたくない人の存在があっても、それとは無関係に「すっと消えてしまいたい」という感情はわいてくる。

難しい。言葉は、そのままだ。それを発した人だけが唯一確実な理解者で、たったひとつの意味しかない。慮ることも汲み取ろうと想像力を働かせることも結局は無意味だから、本意が完全に伝わりきらなかったと落ち込むことももちろん無意味だ。

心の中で、消えたいという言葉がぐるぐる回って消えない。消えたい消えたい消えたいが胸につっかえていて、でもなぜそんなことを考えてしまうのか明確な理由もない。消えたいと思っていても星は綺麗。星になりたい、なんて言ったら勘違いされそうだけど、本当に星になりたい。いつでも人間の上にある。いつでも光って煌めいて見える。あるべき位置で、あるべき光の量をもって。

理解してほしくて言葉を発するのではない。ただ、少しの期待は、正直なところ、ある。伝わったらいいなという小さな祈りのようなもの。祈りと呪いはほぼ同じ。どんなに言葉を尽くしても尽くしても足りない感覚に陥る。もどかしい。生まれてからずっと日本語をつかっているはずなのに、言いたい感情にぴったり当てはまる言葉がひとつも浮かんでこない。

自分の意思がない。だから何も決められない。今日何を食べたいのかも分からない。飲み物は水分補給のために惰性で飲んでいる。芯が何もない。一つ一つの自分の行動にそれを感じてその度に辛くなる。あー、何のために生きているんだろう、私って何をしている時が幸せだったんだろうって夜中の空を眺めながら考える。足りない、足りない、足りない、そればかりを見つめていたら本当に空っぽになってしまった。からっぽ、という響きがとても空っぽだ。報われたいわけではない、認められたいわけでもない、ただ、許されたい。なにに?わからない。

投げやりになって時間を消費して、人とも雑に関わって、ふと立ち止まった時に自分の傲慢さに震えが走る。生まれ変わったら何になりたい?の答えに誠実に答えるのであれば、「生まれ変わりたくない」だと思う。こんなに不健康な精神なのに、健康診断でAをたたき出す。久しぶりに飲んだチューハイがピリッと甘ったるい。少しでも今の現実の自分と向き合うのがこわくて日記もつけられない。私はこれからどこに行くのだろう。冗談の振りして口に出した不安は全部本物だったよ。頼ってほしいと言われても、私にできるのはそこまでだった。半年後生きていないかもしれないと笑ったけれど本当にそうなるかもしれないという恐ろしさがあった。真面目だから頑張ることはできる。頑張るのも多少の無理をするのも大丈夫でーすとヘラヘラするのも結構得意。だけど、走り出した足を止める勇気はずっとない。助けてと言える相手はたった一人だけだった。どんどん打ちのめされて、秋の風は涼しいなのか寒いなのかそんなことを考える余裕もなくて、来月に本物の推しを見られるからそこまでは生きようみたいな目先の理由しかなくて、でもその目先の理由が一番強かったりする。コロナ禍の前、私は何を生きがいとしていたのだろう。覚えていない。私を取り巻く環境も周囲の人たちも随分と変わってしまった。皆は何を生きがいとしているのだろう。ねえ、みんな何をしてる時が幸せなの。どうやって生きることのままならなさに折り合いをつけているの。

別に幸せになりたいというわけではなく、ううん、幸せになろうとは思っているけれど、目の前にいくつも浮かんでいるあらゆる不安が少しでも減ったらいいなと思う。朝がもう少しゆっくり来ますように。今より少し大丈夫になって、今より少し楽になれますように。どんなに覚悟をしていても、なんでも無くす直前に惜しくなるものだよ。何も残さず、誰にも思い出されない、記憶ごと消えるくらいの大爆発がしたいけれど、人間の私は超新星にはなれないから、いつも地上から空を見上げている。星になりたいと思うのは、多分絶対に届かないとわかっているから。手に入らないものを欲しがる無様をずっと抱えて、すんとした顔をしながら騒がしい心で生きていくしかないとわかっている、もう随分と大人だし。こんなに胸の中で消えたいが渦巻いていても、結局今が一番だと思ってしまう自分のこういうあっさりしたところは好き。戻りたい過去もないし、楽しかった思い出も思い出だからこそ良い記憶であるだけだから。三十年弱生きてきたけれど、いつも「今の私」が一番好き、その自分の思考は、割と自分自身を救ってきたと思う。











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