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優しさと思いやりって何なのだろう─長年の疑問と考察の果てに

相手に心を遣う『思いやり』。"優しさ"と類似しているけれど、違うもの。
「あの人は思いやりがある」なんて言うが、その"思いやり"とは何なんだろうか? 『優しさ』とは何なんだろうか?

思いやりも優しさも、人によって基準が違う。その基準は、その人の価値観そのものだ。価値観が尺度になっていると考えてもいい。
だから、同じことをしても、相手によって『思いやり』と捉えられたり、『優しさ』と捉えられたり。はたまた、『ありがた迷惑のお節介』だと捉えられたりする。

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こんなことを私は、かれこれ30年以上考えている。最初に考え始めたのは、小学生のときだ。べつに哲学者になりたかったわけでもない。生活をしているなかで、いろんな人と関わり合うなかで、自然と考えるようになっていき今に至っている。

今日は、そんな『思いやり』や『優しさ』、『お節介』について、つらつらと思うままに書き綴ってみる。

お節介と心理的距離感

私は、どちらかといえば『お節介』な人間だと自覚している。私と関わったことがある人は感じたことがあるかもしれないが、つい踏み込みすぎたり、親切心を押し付け過ぎたりしてしまうところがあるのだ。

その原因は、距離感がわかっていないところにある。というと、語弊があるな。「距離感を冷静に測りきれていない」といったほうが正しい。

自分にとってさほど重要ではない相手には、わりとドライなほうだ。ところが面白いことに、一方で私のことをよく知る人からは「考えるより先に走り出して、手を差し伸べるタイプ」と評される。たしかに、それは全否定できない。気がついたら手を差し出している、なんてことも多々あるからだ。

けれど、それは必ずしも『思いやり』や『優しさ』とはいえない。(と、私は考えている)

意外にも見返りを求めてる人のほうが優しいのかもしれない

私の『お節介』は、無意識的に発動される。なので、見返りなど考える余白がない。動いているときには「相手のために何ができるだろうか?」と、目の前のことにしか思考のベクトルが向いていない。頭の中のリソースが全部、相手に使われている状態というわけだ。

だからなのか、よく「してあげたんだから、してもらえばいいのに」とも言われる。

それについて、考えてみた。

労働であれば対価を求める。それと同じ基準で考えれば、相手に提供した価値と等価値の何かを、対価として得る(見返りを求める)といった考え方もあっていいと思う。それはある意味で、対等な関係だともいえる。

その基準で考えれば、意外にも見返りを求めている人のほうが、相手のことを考えているのかもしれない。ただ、見返りありきの考え方が悪く作用すれば、『搾取』する方向へ転びやすくなる。これは間違いないだろう。


思いやりや優しさは『無垢で美しいもの』という幻想

なんだか哲学的な話みたいと思うかもですが、全くそんなことはないのでご安心を。

人間は、元来泥臭い生き物だ(と思っている)。だからこそ、無垢な美しいものに惹かれるのだと思う。その『無垢で美しいもの』の代表格の一つが『奉仕の心』だろう。

それを万人にわかりやすく、ひらたくした言葉が『思いやり』や『優しさ』だ。

加えて、人間は欲求の塊でもある。欲求が人を、人間たらしめる理由でもある、と私は考えている。その欲求には、今や周知の事実となっている『承認欲求』なるものがある。

SNSによる『イイネ欲しい病』が蔓延するまでは、承認欲求なんて言葉は、一部の人にしか知られていなかった。今や、国民のほとんどが知っている。そうした欲求は、思いやりや優しさとも密接した関係にある。

承認欲求を語るとき、必ず出てくるといっていい『マズローの欲求5段階説』。
※知らない方のために、図を貼っておく。詳しくは、ご自身で調べてみてください。

画像:Bの心理学『【心理学】自己実現の方法|とにかく『得意なこと』を追求せよ』

思いやりや優しさは、最下層の"生理的欲求"を除いた全てで発動されることがある。その頻度は最上段に向かうほどに頻発する傾向が強い。(これは、あくまでも私の経験に基づいた考えだ)

そして、欲求の深さが深い──求める強さが強い──と頻発することもある。「認められたい、受け入れられたい。そのためには、人に優しくしよう」これが、その一例だ。
これには、自身の欲求ありきという考え方ができる。

ここで「いや、それは良くないよ!」とジャッジするのはまだ早い。欲求は誰にでもあって、なければならないものだ。この時点で判断を下すことは、本質から目を背けることになる。

じゃあ、『思いやり』や『優しさ』とは何か?
相手目線で考えるとわかりやすい。


思いやりや優しさは、後付られた意味でしかない

同じ人物を相手に、同じシチュエーションで全く同じことをしても、『思いやり』や『優しさ』と捉えられることもあれば、『お節介』『迷惑』と捉えられることもある。相手の心理的・肉体的・金銭的・環境などあらゆる要因によって、大きく受け取り方が変わる。それらの要因は、物事の判断基準ともなる価値観にも影響を及ぼす。

たとえば、脚を骨折してリハビリが必要になったとする。家族や友人が、辛いだろうからと手助けをしてやろうと手や肩を貸す。だが本人は、自分の力で早く歩けるようになりたいと思っていたら?
家族や友人からの手助けは、本人の希望とは異なるため、『お節介』や『ありがた迷惑』になる。

実際には、こんなシチュエーションで迷惑を感じる人はそんなに多くはないかもしれないが、手助けの度合いによっては『お節介』には大いになりうる。

逆に、本人の意思に合わせて、何の手出しもしないとする。すると、怪我をした人は「自分の意思を尊重してくれた」と思い、相手に『優しい』だとか『思いやりがある』だとかの評価を下す。

行為自体は、ただそういう行動をしたという事実でしかない。そこに「この人は優しい」「この人は思いやりがある」と考えるのは、行為を受けた側がその行為に対して意味づけしているからに過ぎない。

『優しさ』や『思いやり』は、相手によって移ろうもので、明確に「これが優しさだ」「これが思いやりだ」といった線引きができるものじゃないってことなんじゃないだろうか。


思いやりとは『"焦点"を合わせる』ことなんじゃないだろうか

何が優しさで、何が思いやりかを考えるときにポイントになるのが『当人の希望』だ。相手がしてほしいこと・してもらえたら嬉しいと感じることならば、「思いやりがある」「優しくしてもらった」と感じられやすい。

つまり、『痒いところ』に『ピンポイントで手が届く』かどうかがミソなわけだ。

とはいえ、どこがピンポイントかなんて、当人でなければ正確にはわからない。だから『推し量る』ことがとても大切で、それには『共感』が必要。共感するには、経験や想像力が重要だ。さらにいえば、相手の思いや考えに視点を合わせることがなければ、その上に成り立つ想像や共感は、ポイントを外したものになりやすい。

どれだけ近い、あるいは似た経験をしても、感じ方が違えば現れる行動も違う。だからこそ、相手が何をしてほしいのかを見極める"心の目"が必要なんだろう。

その心の目で相手を観察し、その人ならこうかな? ああかな? と思いを馳せ(思考を巡らせ)行動する。これこそが『思いやり』なのではないだろうか。

結局のところ『優しさ』と『思いやり』の違いは、"感情"と"思考"の違い

思いやりは、漢字で書くと『思い遣り』となる。"遣る"という字には、次の意味がある。

①行かせる。出発させる。派遣する。
②(手紙や物を)送る。届ける。贈る。
③晴らす。気を晴らす。なぐさめる。
④与える。払う。
出典(一部抜粋):学研全訳古語辞典

優しさには、次の意味があります。

① 穏やかで好ましい。
② 思いやりがあって親切だ。心が温かい。
③ 上品で美しい。優美だ。 
出典(一部抜粋):三省堂

こうやって見ると、『優しさ』ってなんか抽象的過ぎるな、という気がしないでもない。それもそのはずだ。行動は、行為自体が明確だから表現できる。けれど、感性で表されるものは、表現方法が千差万別だから、一概にこうだ! とは表現できない。

優しさの定義が抽象的なのは、感情が行為に直接結びついた行動だからだ。それに反して思いやりは、感情から思考、思考から行為と段階を踏ん行動に現れる。

冒頭あたりで「考えるよりも先に動く」と書いたが、これは「困っているみたいだ。どうにかしてあげたい」という感情起点といえる。つまり、"優しさ"に当たる行動。

動く前に一旦立ち止まり、「自分に何ができるだろうか」と冷静に思考を巡らせて判断し、その答えに基づいて行動するのが"思いやり"だ。


優しさはハッキリしているけれど、思いやりはわかりづらいもの

時々、人間関係のなかで聞くことがある「あの人は優しいけど、思いやりがない」という言葉。
優しさは『共感』や『同情』をエネルギー源にして瞬発的に発揮されるため、ハッキリとした行動になりやすい。ところが、思いやりはいろいろと考えてから、相手にとって最善だと判断したことを行動にするので、表面化しないことも多い。

優しさは万人に向けて発揮できるものであるけれど、思いやりは万人には向けられない。相手を思いやった行動をとるには、相手のことを深く知っていないとできないからだ。

性格、考え方、受け止め方、価値観などのその人の情報を広く深くインプットしていないと、その人にとってのベストを導き出せない。だから、他人を思いやることって、実はめちゃくちゃ難しい。


世の中は優しさよりも『思いやり』を求めてる

※ここからは、まとめ的な内容と私の感想です。

Twitterを見ていると特に、何だかんだとあちらコチラでよく火柱が上がってる。InstagramやFacebookでは、あまり見かけたことがない(私だけ?)。
コミュニケーションのスピード感の違いや、140字という文字数の少なさが、より炎上しやすい構造になっているのかもしれないな。

私は人の感情に感化されやすいので、あんまり炎上してるツイには近づかないのだけど、リツイートで流れてきて目にしちゃうこともよくあるんですよね。たぶん、それは皆も一緒だと思う。

で、やっぱり何がそんなに炎上してるんだろうっていう、興味はあるわけですよ。「この人の何がトラブルを引き起こしてるんだろう?」「なぜ、この人はこんなことを言った(書いた)んだろう?」って書いた人への興味だったり、分析マニアな私の探究心だったりが疼くんです。

世の中いろんな人がいるので、いろんな考え方があっていいんです。その考え方を140字で簡潔にまとめるって、相当難しいです。だから、1つのツイで一側面しか表現できなかったり、そのうちのさらに一部分しか表現できなかったりすることも大いにありえるわけですよ。

前後の脈絡やそれまでのその人の発言や行動などを含めての異論・反論はありだと思ってます。それがコミュニケーションだから。ただ、それが感情起点になっていないだろうかってことは、考えたほうがいいと思ってます。発信する側も受けてコメントする側もお互いに。

逆に良い意味でバズってる内容って、よくよく見ると思いやりに溢れてるものが多いんですよね。ツイに乗せた思いを届けたいターゲットモデルがいて、その人のことをめちゃくちゃ想像してあるんだろうなって感じ取れるんですよ。

そうやって見比べてみると、炎上しちゃうものは元ツイ含めて言葉が欠けてたり、遣ってるのが優しさだったりで、思いやりが足りてない。一瞬炎上か!? って思うものでも、そのあとの対応に思いやりがあれば鎮火してるんですよね。

優しさと思いやりって、つい混同して間違えてしまいやすいですが、感情だけで突っ走れば、独りよがりになりがちです。(これは完全に自戒を込めて笑)
反対に、自分のことを懸命に考えてくれた結果なら嬉しいもんです。(私は嬉しい)

ただ、思いやりは表面的に現れないこともよくあるぶん、見過ごしてしまいやすいものでもある。結局のところ、どれだけ相手を観察してたくさんコミュニケーションをとるかが重要ってことなのかなと思います。

それができてはじめて、相手の思いやりに気づけたり、相手を本当に思いやれたりするんでしょうね。


あとがき

長年考えてきたことが、また少し整理できました。まだ考察しきれてないところもあるので、またそれは改めて。(いつになるやら……)

ご読了、ありがとうございました! See you!

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