見出し画像

【本】『禅と日本文化』鈴木大拙さん 第六章 禅と茶道

禅は、日本人の性格と文化にどのような影響をおよぼしているか。
そもそも、禅とはなにか

ということを、様々な視点から書かれているのですが、まずは、第六章の「禅と茶道」から、ココロに響いたものをピックアップします。


禅の茶道に通うところは、いつも物事を単純化せんとするところに在る。この不必要なものを除き去ることを、禅は究極実在の直感的把握によって成しとげ、茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを生活上のものの上に移すことによって成しとげる。

茶は原始的単純性の洗煉美化である。自然に親しむというその理想を実現するために、茅の屋根の下に身を寄せ、わずか四畳半ではあるが構造と調度に技巧を凝した小室に坐るのである。

禅の狙うところも、人類が己を勿体づけるために工夫したと思われるような、一切の人為的な覆いものをはぎとる点にある。

シンプルに、物事を考える、行うことが大事だな、と最近考えているので、単純化というところに、共感しました。

また、下記4つの要素が大事だそうです。

 茶の湯はその実際的な発展の上ばかりでなく、おもにその作法を通して流れる精神をたっとぶ上で、禅と密接な関連があることをわれわれは知るのである。この精神は感情上の用語でいえば「和・敬・清・寂」からなる。

これら四要素は、茶の湯の首尾をまっとうするために必要であり、いずれもみな、同胞相親しむ、秩序的な生活の本質を成す成分であるが、この生活とは禅寺の生活に他ならない。


調和(harmony)の和は和悦(gentleness of spirit)の和とも読める。思うに、この意味の和こそ茶の湯の行程全体を支配する精神をさらによく表しているようだ。調和は形の方を意味するが、和悦は内的感情を示唆する。

総じて茶室の雰囲気はむしろこの種の和を周囲につくりだすことでる。

ー感触の和、香気の和、光線の和、音響の和を。

まず茶碗を取りあげれば、手づくりで歪んでいる。釉の掛けかたも一様になっていないらしい。かく原始的ではあるが、このささやかな器は和・静・慎、特有の美(チャーム)をもっている。

香をたいてもけっして強くなく刺激もせぬ、やわらかく漂いわたる。窓と襖も茶室に漂いわたる和らぎの美の源である。

室に許される光線はいつも柔らかくやすらかで、瞑想的な気分に誘いこむ。

風は茶室をかばう老松の葉に通い、炉にたぎり鳴る釜の音と相和す。

この環境のすべては、かようにして、それをつくりだした人の人格を反映するのである。

和にも、いろんな和があって、茶室でお茶をたのしむ、ということは、五感でこの空間にいることを喜び、感じることなんだなあと。


日本全島をとりまく自然科学的雰囲気は気候上のみならず気象学上からも、総体的に温和という特色を持っている。これは多く空気中の水蒸気の存在にもとづく。山嶽・村落・森林などは水蒸気につつまれて柔かな外貌を呈する。

花は概して色がけばけばしくなく、やや和らぎを帯びてたおやかである。そして、春の葉ぶりは目にもさわやかである。このような環境に育てられた感じやすい心は、誤りなくそこから多くのものを吸収するが、それが心の和となる。

しかし、われわれは社会的・政治的・経済的・民族的種々な難題に接触するにつれ、この日本的性格の基礎的な美学からそれやすい。われわれは汚染に対して自分をまもらねばならぬ。

禅がこのときに際してわれわれを助けにくる。

日本人は、気候・気象的に、とても恵まれている、ということ。


水を鉢に注げば注入するのは水だけではないー善悪、純不純の種々雑多のものが、拭わねばならぬもの、自分の深い無意識のなか以外どこにも注ぎだすことのできぬものが、入ってくる。

茶を点てる水を分析すれば意識の流れをみだし汚す穢物いっさいを含んでいる。

技術の完成されるのはそれが技術たることを止めるときのみである。この時に無技巧の完成が存し、人間の奥底の誠実がおのずから現れるが、これが茶の湯における「敬」の意味である。

敬は、それゆえ、心の誠実か、単純さである。


「清」は日本的心理の寄与であるといってよい。清は清潔であり、ときとして整頓であり、茶の湯と関係するいかなる事、いかなる場所にもこれを窺うことができる。

露地と称する茶庭では清水を自由に使用するが、自然の流水を利用できぬ場合には手ぢかに石の手洗鉢がある。

茶室に一塵も止めぬはいうまでもないことである。

『茶の湯の本意は、六根を清くする為なり。眼に掛物・生花を見、鼻に香をかぎ、耳に湯音を聴き、口に茶を味ひ、手足格を正し、五根清浄なる時、意自ら清浄なり。畢竟、意を清くする所なり。我は二十六時中茶の湯の心離れず、全く慰み事にあらず。又、道具は、たけぐ相応にするものなり』

(葉隠第二巻聞書の二) ある茶人の言葉


寂は日本語のさびである。が、さびは静寂より内容が広い。寂にあたる梵語のSantiは事実「静寂」「平和」「静穏」を意味し、寂はしばしば仏典では「死」または「涅槃」を指すために用いられてきた。

しかし、この語が茶の湯に用いられる時には、その指すところは「貧困」「単純化」「孤絶」などにちかく、ここにさびはわびと同意語となる。

貧困を味うために、あるいは、与えられしものをそのままに受容れるためには静かな心が要る。

が、わび・さび両者には対称性が暗示される。

わびという気分を引き起すなにか対象物がいつも存する。わびは単にある型の環境に対する心理的な反動ではない。そこには美的指導原理が存し、これを欠けば貧乏はただの貧困となり、孤絶はオストラシズムや非人間的な非社会性となる。ゆえにわびやさびを定義して貧乏の美的趣味となすことができよう。

これを芸術の原理として用いる場合には、わびやさびの感情を目覚ますような環境をつくりだすこと、または摸造することである。

今日この語を用いる場合には、さびはいっぱんに個々の事物や環境に、わびは通常、貧乏、不十分あるいは不完全を連想させる生活状態に適用される。


わびの生活はかように定義されよう。貧乏のうちに深く蔵されているところの、言葉では表しがたい静かなよろこび、と。

茶の湯はこの観念を芸術的に表現しようというのである。


われわれいわゆる現代人は閑暇を失っている。悶える心には真に生を楽しむ余裕はなく、ただ刺激のために刺激を追って、内心の苦悶を一時的に窒息させておこうとするにすぎない。

主要な問題は生活はゆったりとした教養的享受のためにあるのか、快楽と感覚的刺激を求めるためにあるのか、どちらだろうかという点である。

1940年に、このような問い。

無意識

一芸の熟達に必要なあらゆる実際的な技術や方法論的詳細の底には、自分のいわゆる「宇宙的無意識」に直接到達するある直覚が存し、各種芸術に属するこれらの諸直覚はすべてみな、個々無関連な、相互に無関係なものと見なすべきものではなく、一つの根本的な直覚から生ずるものと、見なすべきものだということである。

剣士・茶人そのほかの各種芸道の師匠たちが了得したいろいろな専門的な諸直覚は、要するに、一つの大きな体験の各特殊な応用にすぎないとは、事実、日本人一般からかたく信じられているところである。

日本人はこの信念を徹底的に分析して、それに科学的な基礎を与えるようになるには、まだしていないが、この根本的な体験をもって、一切の創造力、芸術的衝動の根源、とくに、死生の海をこえて一切の無常の形のなかにある「実在」たる「無意識」そのものへの洞徹であると認めている。

禅匠たちは究極においてその哲学を仏法の空および般若(智慧)の説から得て、生命、すなわち「生死なき生死」という語をもって、この「無意識」を説く。

禅匠にとっては、それゆえに最後の直覚というのは生死を超越することであり、無畏の境に到達することである。

「悟り」がその点にまで熟してきたとき、もろもろの驚異がなし遂げられる。


「和・敬・清・寂」の心と、無意識を意識する。

そんな一日の終わり

他の章も、ゆっくり読みたいと思います。

昭和十五年八月 鎌倉にて 鈴木大拙


この記事が参加している募集

推薦図書

最後までお読みいただき、ありがとうございます!スキ💛コメント、とても嬉しいです💛