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不気味な言葉【人それぞれ】

個々の考えが違うことが争いの原因なら、今からの世界は、”表面的”に非常に生き易いものになるだろう。
目に見えない有刺鉄線で囲われた”言論統制劇場”と言う名の大地で、各々が「自分は人から批判を受けないように」と怯えながら生きている。それが今の世界。
「人それぞれだから」という言葉が乱用されている現状がソレを物語っている。
人それぞれ・・・・それは確かな概念。
十人十色・三者三様・多種多様などという表現があるのは、それが「当たり前」だから生まれた言葉でもあるけれど、現在、それらは「権力者が創った気味の悪い多様性」へと向かわせるために利用されている。

「人それぞれ」は都合がいい。議論・討論(深いレベルでの意見交換)を避け、本質的に”解り合う”事から目を背けるにはモッテコイな表現だ。
「わたしは○○だと思うなぁ。」という人に対し、ソレに対する確固たる意見を持たない者や反発を覚える者は「人それぞれだから」で済ます。
会話に”勝ち負け”は無いはずなのに、そういう人達は”勝ち負け”を意識している傾向があるようにも思う。
深いレベルでの意見交換は人を成長させる。思考力も高まり共感性にも磨きがかかる。それなのに現代人は各種媒体によって誘導された「人それぞれ」に吸い込まれ、深いレベルでの意見交換を避け、あげく「マウント」という流行語で全てを葬り去る。

「人それぞれ」が自己防衛として使われている。
「人それぞれ」が分断に貢献している。
「人それぞれ」が人と人の距離を凄く遠いものにしている。
この時点ですでに元々の「人それぞれ」という言葉が本来持つ意味や概念から逸脱しているのは明らか。
「人それぞれ」は本来「そういう人も居て良い、ああいう人も居て当たり前、あんな人が居るのも面白い、どんな人でも”当然”の存在」という意味のはずだ。
更に言うなら「人それぞれ」は本来、心で感じ心で理解する事であって言葉にする必要が無い事でもある。

つまり、現代人類が使っている「人それぞれ」は既に”新しい概念”になってしまったという事。新世界秩序に相応しい様変わり。
議論は出来ない、深い話し合いはしたくない・・・が産み出す世界は「誰からも文句は言われず」生き易い世界であると同時に「誰とも本音の意見交換が許されない」世界であり「誰とも深くは理解し合えない」世界で「意見交換が恐怖」な空虚で心満たされることが無い世界。
生き易いと感じるならそれでいい。でも、そういう新秩序・新概念によって、誰しもが真綿で首を絞められるように窮屈な世界へ閉じ込められ始めている。

人々が「人それぞれ」を使わず議論・会話できるのは”どうでもいいこと”だけ。
「あそこのラーメン屋が美味しい」
「え~?そう?だったら○○のが美味しくない?」

「○○っておもしろいよね」
「そんなことないよ。○○のがずっと面白い。○○のどこがいいの?」
そういう事ばかり。

肝心な事には触れない。肝心な話に対しては「人それぞれ」と「マウント」のセットで口封じ。

わたしは長い間現代社会とは無縁で山の中で過ごしてきた。現代的な活動(買い物・外食・観光・梯子酒など)も長い事していない。
数年ぶり、九月初旬に幼馴染一家と外食に行った時、わたしはほんの二時間位の間に、店の中に居た人々の会話やテレビの音声などから「人それぞれ」の違和感と「マウント」という流行り言葉の恐ろしさを察知した。
それ以降、ラジオを聴いていてもソレらが頻繁に出現し、わたしの中で「目立ち」始め危機的な”何か”を感じている。
日本語が崩壊したのは随分前からだけど、日本語の”語”が持つ意味まで崩壊しているなんて思いもしなかった。
更に言えば日本語の「発音」も崩壊している。
この現代を現代人として生きている人達には気付き難い事かもしれない。
この”日本語の崩壊”はメディアなどによって、緩やかに変化し書き換えられたはずだからだ。

現代人ならきっと想像できるはずだから例を挙げると・・・
「凄くないですか?」の発音を頭に浮かべてほしい。ソレは本来の発音ではないはずだ。
そもそも「凄くないですか?」という言葉自体もおかしい。

わたしが書いたこの違和感、共感できる人はどれだけいるだろう?
大多数の人がきっとこう思うはずだ。
「日本語だって時代と共に変化変容進化するもの。発音や意味などは”人それぞれ”なんだから時代錯誤な事は言うな。」
とか
「だったらなに?マウントかよ?」

数年ぶりに戻った現代は悲しい世界になってしまった。
表面上は以前と変わらないのに、中身が全く違う世界。
これが新世界か・・・・・

以上だ!また会おうぜ、あばよ!




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