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【昭和時代】小学校の現実と雑談

忘れ物をした・宿題をやってこなかった・廊下を走った・掃除中にふざけた・・・・
理由は何であれ「罰」をくらうのが昭和5Z年義務教育現場、すなわち小学校の「当たり前」だった。

割烹着を忘れた月曜の昼(給食時間・昼休み)は給食抜き・昼休みの出歩き禁止(自席でのロックダウン)などの罰が課せられるのが当たり前だった時代を覚えていないか?
あの頃、罰は当たり前で当然のものとして皆受け入れていた。
教師は「絶対的な存在」で「保護者・生徒」はソレの下。
それが昭和の義務教育現場の”普通”。

だから、偶然たまたま自分のクラスの受け持ちが”成り立てホヤホヤ.新米教師”だと、そういう威圧が色濃く出ないせいか「なんとなく落ち着く」と感じていたのは全児童共通なんじゃないかと思う。

そんな新米教師でも場数を踏んでいくうちに”クラス担任”という立場が定着し、その実権や影響力などに酔いしれ暴走を始める。
わたしは小学三年~四年の間を新米教師に受け持たれた。
「明るく 楽しく 元気よく」が新米担任が打ち出したクラスのスローガンで、実際そういう良いクラスだったと思っていた、最初の半年くらい迄は。

担任はクラスの団結を深めるため月に一度「仲良し会議」と言う名のお楽しみ会を開催した。
仲良し会議は大概五時間目の授業を中断して行われた。
マシュマロ・歌舞伎揚げ・酢ダコさん太郎・うまい棒など、子供心をグッと掴むような菓子を担任は用意し、それを「餌」にクラスをまとめようとしていた。
どいつもこいつも担任にメロメロ。
担任は僅かな時間と投資(菓子代)で生徒の信頼をアッサリ手に入れた。

新米担任がクラスへ権力を魅せつける絶好のタイミングはわたしが与えた。
わたしは”肉の脂身”が嫌いだった。
給食で酢豚が出た際に肉をまるまる残した。
担任はキレた。
「食べ物を好き嫌いで無駄にする奴はどうなるか?」という見せしめで、私は担任に油性マジックで額に「肉」と書かれた。
今の時代では考えられないような事だけど、それは本当に行われた。
当時「キン肉マン」が流行っていて、額に”肉”と書かれているのはまさにソレの象徴で皆から笑われた。「へのつっぱりはいらんです」・・・。昼休み・午後からの授業中・掃除時間・下校時間、わたしの「額」が人目に付く場では常に「クスクス」が聞こえ何とも言えない気持ちになった。
でもわたしは「自分は間違っていない。嫌いな物を強制的に食わされるくらいなら笑われていたほうがいい」と思っていた。
それが昭和の小学校での常識。
わたしは「額に肉事件」から社会活動家としての活動を始めた。
「こんな事は間違っている。教師の暴挙を許し、罰を与えられたクラスメイトを笑うのは簡単だけど、いつか近い将来に自分たち(クラスメイト)もわたしと同じ目に遭う。ソレを黙認する事はクラス全体の今後に悪影響を及ぼすから、絶対に担任の暴挙を許すな!」。そういう内容の新聞を作りクラスメイトに配った。校長に訴えた事もある。
その活動は誰からも賛同は得られず「負け犬の遠吠え」扱いだった。

怒られるような事をする奴が悪い。教師の判断に間違いはない。

それがクラスメイトが出した結論だった。
新米担任はその後更なる暴走を始めた。次々と犠牲者は増える。でも、それは「怒られるような事をしたそいつの責任」で済まされる。
「額に肉」など序の口だった。その後与えられた「罰」は”耳なし芳一の刑”で、顔の隅々まで「イロハニホヘト・・・・・」が油性マジックで書かれるというおぞましいものだった。
油性マジックは一日では消えない。書かれた日から三日間はウッスラとその余韻を残す。

わたしの「肉の脂身が嫌い」は罰を受けようとも直ることは無い。直す気も無い。だから給食が凄く憂鬱だった。
一か月の献立を見て「給食で肉が出る日」はずる休みで凌ごうとしたけど、全ての「肉日」を避けるのは難しい。
ある時の「肉日」。
罰を恐れたわたしはクラスメイトにバレない様に肉を給食袋に隠した。
後で捨てるつもりだった。
翌日わたしは風邪をひき学校絵を休んだ。
その時の掃除時間。わたしの机がひっくり返り、給食袋に隠していた肉が床にばら撒かったらしい。わたしの企みがクラス中にバレた。
ソレを知らずわたしは翌日登校。
「先生に言いつけたからな!肉残してやんの!お前、朝の会で怒られるからな!ざまぁ~!」
教室に入ったわたしに古川がそう言った。

いつものわたしなら腹痛を起こしそうな場面だったけど、その時に何かが弾け飛んだ。
「やれるもんならやってみろ!」そう言ってわたしは古川の顔面をグーで殴った。
古川はクラスの中でも「強い存在」だった。古川を恐れている者も多かった。
グーで殴られた古川は泣いてトイレに逃げた。
逃げると同時に担任登場。
古川が泣いている理由は、わたしにグーで殴られたからだと山内が言う。学級員の名に懸けての「正義」炸裂。
担任は理由も聞かずわたしを罰した。
まあ、理由を聞いたところで何も変わらなかったはずだけど、わたしは額に「愚」と書かれて一日廊下で正座の刑に処された。
バカみたいに言われたまま、一日そんなところで過ごすわたしじゃない。
私は一時間目の授業が終わらないうちに黙って家に帰った。
家というか、隣人の「犬の小屋」に帰った。
隣の家の犬小屋はデカく、小学生のわたしをかくまうには絶好の場所だった。今でこそ、こんな話は冗談やたちの悪いおとぎ話に聴こえるかもしれないが当時、似たような目に遭った者は多くいるはずだ。

競争・ランク付けなどが「悪」とされている現代。
でも、実際にはどうだろう?本当に「今この世界」でランクなんて無いのか?競争は無いのか?
偏見・差別も良くない。
でも、どうだ?
本当に「今この世界」に偏見・差別はないか?
昨今性別問題が騒がれているらしいが、性別が何だっていうんだろう?
男か女かどちらでもないのか、そんな事正直たいした問題じゃない。
自分の感覚に合う性別を自分で楽しめばいい。
それなのに過剰に性別を「繊細な問題」として扱うのは、逆に「差別」じゃないのか?

時代によって常識は変わる。
昭和と現代では色々違う。
根性論が当然だった昭和。強制的な多様性が浸透する現代。スピリチュアル界隈では風の時代・地の時代などと言われている。
どっちが良いというわけではない。
ただ国民があまりにも偏った情報に操作されているような気がする。偏った世界観へいざなわれている。
多様性ってのはさ、わざわざ言い広めるもんじゃないんだよ。
強制的に認識させるようなもんじゃないんだよ。
主張なんかしなくても、もともと「当たり前に誰しもが持って生まれた」ものなんだよ。

最近幼馴染とのやりとりがあって小学校時代の事思い出す事多かったから書いてみた。

以上だ!また会おうぜ、あばよ!










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