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建築批評:太田市美術館・図書館(パラレルワールドと建築)

年末に太田市美術館・図書館(設計:平田晃久建築設計事務所 竣工:2017年)に伺った。
設計段階から市民の意志を積極的に反映した設計プロセスが話題となっており、
竣工後も非常に高い評価を得ていたと記憶している。
ずっとナマで体験したいと思っていたが、
今回仕事で前橋の方に行く用事があり、その途中で立ち寄ることができた。

結論から言うと太田市美術館・図書館は
「2つの全体性、2つのリアリティを併存させているスゴイ建築」
だった。
以下ではそれがどういうことかを言葉にしてみる。



01.「図式」としての太田市美術館・図書館

この建物は比較的シンプルなルールによってできている。
「BOX」と呼ばれる4つの鉄筋コンクリート造のボックスの周囲に、「LIMB」と呼ばれる鉄骨造のプレートがスロープになりグルグルとまとわりついている。

美術館の展示室や事務室、カフェキッチンや視聴覚ホールなど、
ある程度閉じなくてはいけない空間はBOX内に配置され、
動線の他、書棚が置かれた図書空間、カフェの客席、その他イベントスペースといった開放できる空間はLIMBの上に設えられている。

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細かく段階的なゾーニング、もしくは空間や機能に対して微妙・難解なニュアンスを用いることなく、
閉じる→BOX
開く →LIMB
という2種類の空間をうまく使い分けることで、
難しいことを考えなくても理解できるシンプルな構成になっているのがこの建築の特徴だ。
後述の通り、建物内での方向感覚の捉えにくさも存在するが、
ガラス張りとなった外壁の向こうに見える街の風景を手掛かりに
「自分が今どの方向を向いて、どの位置にいるか」
を理解することができる。

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おそらく、使い込んでいけば自分の家のように、今どこで何が起きているかも察知できるだろう。
シンプルな「図式」という全体性が建築全体という遠景への見通しを向上させ、
透明性の高い、安心感のある建築を実現している、と推測される。


02.「迷路」としての太田市美術館・図書館

しかしそれはあくまで「使い込んでいけば」の話だ。
初めて来た人にとってこの建築は迷路のように感じる。

建物の中に入ると建物中央の吹抜けに至り、
インフォメーションカウンターと美術館入口が現れる。
吹抜けはLIMBと階段が錯綜しており、上述の「構成のシンプルさ」とは全く逆の複雑な空間が目の前に広がる。

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その後、美術館利用者は緩いカーブを描くLIMBの外周をサインに導かれるまま、
スルスルっと、展示室であるBOXに入ったり、出たりを繰り返す。
すると、いつの間にか2Fに到着し、先ほど見上げた吹抜けが足元に広がっており、
螺旋階段をグルグルと上がって3Fについたころには、
自分がどこにいて、どっちを向いているのか、よく分からなくなる。

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位置や方向が分かりにくいということは、決して悪いことではない。
建物内の風景や出来事に没入感を与え、楽しく新鮮な体験で彩ることができるからだ。

映画のストーリー解説やネタバレが、時として興ざめを引き起こしてしまうように、
もしくは、夏休みは残り日数を忘れて遊んでいる時が一番楽しいように、
全体像が分かっていないほうが目の前の出来事を新鮮なものとして、純粋に楽しめることがある。
つまり、目の前のことにワクワクし熱狂するには、それに集中できる環境が必要になり、
そのためには全体像をあえて見せない、あるいは分かりにくくするというのは一つの手段になりうる、ということだ。

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太田市美術館・図書館においては、
上で述べた「BOXの出入り」「緩いカーブを描く外周」「螺旋階段」に加え
「XY軸から少しだけふられたBOX配置」「スロープ」「複数の出入口」、
そしてシンプルな構成ルールを俯瞰できない「巨大さ」が、
建築全体という遠景に霧をかけ、
あえて見通しの悪いものにしている。
それにより、ユーザーは足元や目の前の、普通だったら気づかないような近景を発見し。親しみ、楽しむことができるようになる。
「迷路」のような不透明な全体性が、建築内での小さな風景1つに1つに輝きを与えている。

「遠景」「近景」という用語については、上記記事にて詳しく説明している。


03.交わることのない、2つのリアリティ

太田市美術館・図書館には少なくとも、2つの全体性が存在する。
1つは「図式」、1つは「迷路」
上述の通り、図式としての全体性は自分の家のような安心感と居心地の良さ与え、
迷路としての全体性は目の前の小さな出来事や風景への気づきを与えてくれる。
つまり、図式と迷路はそれぞれ、別種のリアリティをこの建築に与える。

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さらに、この2つのリアリティは同時には両立しない。
迷路として建築を受け入れた時は図式を忘れている必要があり、
図式として建築を受け入れた時は迷路がネタバレしているはずだからだ。
図式と迷路のリアリティは決して交わらない。
しかし、だからこそ「図式としての建築」と「迷路としての建築」それぞれで得られる体験は純粋で価値の高いものになる。

「リアリティ」が同じ場所でダブる。
1つ1つのリアリティは3次元空間+時間=4次元時空なので、
別種のリアリティが並列する方向(1次元)を加えると、
現実は計5次元となる。

縦糸と横糸の図_2

(図版:リアリティとオブジェクト)
横軸方向に延びる各リアリティ(4次元)が
縦方向(1次元)に複数並列し
オブジェクト(もしくは建築)がリアリティを横断する

同じ場所に立ちながら、異なる世界・リアリティに居る2人が存在しうる様相は、
文化人文学的パラレルワールド、ともいえるかもしれない。

上記記事で、上の「図版:リアリティとオブジェクト」についての詳細と、より深い考察を記している。
合わせてチェックいただけると嬉しい。


04.全体性は1つに収束しない

人間が1つの統一されたキャラクター(個人)であるよう社会から要請されるように、
建築もしばしば1つの統一された全体性を求められることがある。

「この建築の全体性とは何か?」という問いの裏側には、
細かいモノゴトがあったとしても、ちゃんとデザインされた建築は一つの全体性に収束するべきだという倫理観のようなものが存在し、
真に客観的な視点が存在するという前提や、
客観的な視点からならその建築の真の姿(全体性)が把握できる、という常識が存在する。

しかし、個人といえども関わる相手や状況によって様々なモード(分人)を使い分けるのと同じように、
建築が複数の全体性を持っていてもいいし、むしろ本来建築ってそういうものなのではないか、と思う。
わざわざ一つの全体性へ理解を収束させたり、
「この建築の真の全体性はコレだ!」という他人の解釈にイチイチ従うよりは、
自分のリアリティをもって自分なりに、作ったり体験できる方がシンプルに楽しい。

また、キャラクターや全体性を1つに収束させようとする力学は多くの場合、相手にとって理解しやすくするための都合によって発生するものであり、
悪い言い方をすれば、見る側の時間・労力不足や怠慢に起因する。
僕は、人間も建築も本来は色んな顔があって、色んなキャラクターを持ち、多様な全体性を持ち合わせているものであり、
太田市美術館・図書館が現にそうであるように、その方が豊かなのではないかと思う。

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重要なのは全体性の収束ではなく、
それぞれの全体性が持つリアリティが不当に交差してしまいお互いを損なわないことだ。
その点でも、太田市美術館・図書館はスケールや開口、素材、ゾーニングや動線計画などによって、上手く2つのリアリティを整理している。

また、収束しない全体性は観念的な豊かさだけでなく、
面積的な効率性にもつながる。
太田市美術館・図書館は1~3Fの3層(3 stories)の建築物だが、
「図式としての建築」で3層(3 stories)、
「迷路としての建築」で3層(3 stories)と考えれば、
単純計算で少なくとも計6層(6 stories)分の働きができる建築であると考えることもできる。
もちろん、6階建ての建築物と全く同じということではないが、
より多くの種類・数のユーザーに開かれた、公共的な建築空間になっていることは確かだ。

上記記事で圏域が複層することで実現する公共性として、
オルタナティブ・パブリックネス論(APness論)を論じている。
あわせてご参照いただけると嬉しい。


+おまけ:「フィクション」ではなく「リアリティ」と表現する理由

本テキストでは「リアリティ」という言葉を多用している。
リアリティ(reality)は「実在性」という少し難しい言葉に翻訳できるが、
本テキストにおける「リアリティ」は「実在性」に近い意味で用いている。
すると、そういう用語に詳しい方は、
「リアリティ=実在性が2つ以上同じ場所に並存し、1つに収束しない」
という表現に違和感を覚えるかもしれない。
もしくは
「個々人の主観的な認識の問題なのだから、リアリティではなくフィクションなのではないか?
と考える人が、もしかしたらいるかもしれない。

こういった意見については以下の2つの返答を用意してみる。

①実際の生活や社会の動向と連動しているから

以前展示の考察として以下の記事を書いたことがある。

ここでは「フィクション」という言葉を使ったが、
その理由はこれが現実から切り離された、しかも期間限定の展示空間内での出来事であり、
実際の生活や社会の動向と連動して変化したり、影響し合ったりするものではないからだ。

建築は良くも悪くも、周辺の時空間の影響を強く受ける。
周辺地域に変化が生じれば、少なからず建築も変化を迫られるし、場合によっては建築物の解体に至る。
また建築は周辺の時空間に影響を与えることもある。
太田市美術館・図書館が現れたことで、駅前で今までできなかったことが色々とできるようになったことは想像に難くないし、
現に僕のような太田市に一度も来たことがない人が訪れるキッカケを作っている。

建築内の出来事は現に現実と密接に接続しているので、
現実の出来事の事実性を尊重するために「リアリティ」という言葉を使った
もし「フィクション」という言葉を使うと、
建築の前後に実際に存在する文化や物事、個々人の行為があたかも取り換え可能な、無意味なものになってしまうからだ。


②創作(建築設計)のセオリーとして自分が面白いと思うから

僕は哲学者ではないので、
仮に「実在性」の論理根拠に対しての批判があったとしても、
正当な返答をすることは、能力的にも、権利的にもできない。
むしろ、「リアリティ/実在性」といった言葉はあくまでイチ建築家としてのものであり、
その利用基準は論述の正当性ではなく、
「そのように仮定して創作するのと面白くなるか、どうか」
という点にある。

自分もそれなりに哲学の本は好きなので全く見当違いのことは言っていないと思うが、
あくまで天文物理学に対するサイエンスフィクション程度に認識してもらった方が望ましいのかもしれない。

[お仕事の依頼や相談は下記連絡先まで]
nishikura.minory@gmail.com
MACAP代表 西倉美祝
ウェブサイト : https://www.macap.net/
インスタグラム: https://www.instagram.com/minoryarts/

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