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同じ書物を読む人あり、遠方より便り来る。また嬉しからずや。

 拝啓

 先日は、お手紙をありがとうございます。

 noteからのお知らせが、まるで自宅のポストに郵便が届いたような喜びをもたらし、急いで開封するように記事を開いて読みました。もし、封書だったら、胸に抱いていたでしょう。手紙の苦手な私に色々とご配慮くださって、胸が熱くなりました。

 「手紙」を読んでいただいて先刻ご承知の事かと思いますが、お手紙をいただいた私は、あなたが「あの手紙になにか不備があったろうか、気に染まぬことを書いたのでは・・・」などと心配しているのではないか、と心配し、すぐにでもお返事を書かなければと焦るのですが、いや待て。焦ってはことを仕損じる。これほどのお手紙に簡単に返事はできないぞと、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような有様でございました。お返事が遅れましたこと、申し訳ございません。

 かくして「手紙」に書いた通りの経過をたどり、便箋に書いているわけではないのに書き出しに悩み、書いては直し、そして書いている今この時から、投函(投稿)の勇気が出るかどうかの心配をしております。難儀な性格と申しましょうか、何と申しましょうか。唯一、あなたがご配慮くださったとおり、便箋に手書きでないのだけが救いです。

 とはいえ言い訳ばかりに終始してしまってはなんのためのお返事かわかりません。まずは、私の拙い記事にあなたが目を留め、読んでくださったこと、そしていくつかの内容にシンパシィを感じてお手紙をくださったこと、誠に有難く、感謝と言う言葉だけでは言い表せない気持ちを感じています。

 「同じ書物を読む人は遠くにいる」。

 この言葉を、この何年か、大切に思ってきました。
 同じ書物——それは「感性の響き合い」なのだろうと思い、いつかそんな方に会えることを祈っていました。なんとあなたは十年以上前からこの言葉と読書猿さんをご存じだったのですね。このたび、この言葉によってあなたと繋がり、そのことを小躍りして喜んでくださったということが、なによりも嬉しく思っております。

 あなたからのお手紙にありました向田邦子「胡桃の部屋」と岡崎京子『UNTITLED』の「万事快調」を読みました。先日のコメントにも書きましたが、こうして自分の知らない本、知らない作品、未知に出会えることは何にもまして素晴らしい体験です。教えてくださってありがとうございます。

 確かにふたつのお話は、読んでからしばらく経つと頭の中で混乱するほどに様々な要素が似ていますね。いまや私の頭の中で、『胡桃の部屋』の長女桃子は「万事快調」のゆきこの顔をしています。家の近くの坂道を「がんばらなくちゃがんばらなくちゃ」とふくらはぎに力をいれているゆきこは、同時に心の中で「人生はワンツーパンチ」と水前寺清子を歌っているようです。

 期せずして似たのか、それとも岡崎京子が向田邦子を読んでいたか、それがどうでもよいことに感じるほど、ふたつの作品はどちらもそれぞれ完成度が高く、心に深く着地しました。向田邦子の、空回りする虚しさを日常の機微から掬い上げる筆致も、岡崎京子の短編をそれぞれリンクさせた漫画的かつ映画的な技巧も、まるで神業のように思われます。

『UNTITLED』は、岡崎さんの1996年5月の事故後に出版されたとあとがきに書いてありました。私は「チワワちゃん」(1996年3月)が事故前に出版されたの最後の作品だったと記憶していますが、これは正しいかどうかわかりません。

 あなたのうっとりするような書棚には岡崎京子コーナーがあり、『チワワちゃん』も並んでいましたね。私は『チワワちゃん』を読んだとき、有吉佐和子の『悪女について』を思い浮かべました。

 岡崎京子は、よく言われるように非常に小説的で、哲学的な余韻を描ける漫画家だと思います。そのせいか、文学作品とリンクしてしまう作品が多くあると感じます。

 今回、上記の作品に刺激を受けて、この二つの作品も読みかえしました。おそらくご存じかと思いますが補足的に付け加えますと、有吉佐和子の『悪女について』は謎の死を遂げた女実業家についてのインタビューという形で、何人もの人々の証言により、稀代の悪女と言われた女性の人物像に迫る、という話で、『チワワちゃん』も殺人事件の被害者となった若い女性について交流のあった友達が集まって彼女の人物像を語り追悼ビデオを作るという話です。

 有吉佐和子もベストセラーを数多く書きながら早逝してしまった作家であり、しかも生前は、純文学作家としては思ったような評価が得られなかったと何かで読みました。

 ほぼ同時代の人であり、飛行機事故により51歳で亡くなった向田邦子と直前までテレビに出演していて53歳で突然亡くなった有吉佐和子。平成の時代を駆けぬけ、漫画家として脂ののった30代で事故に遭い漫画家としての人生をあきらめざるを得なかった岡崎京子。唐突に創作人生が断ち切られた三人には「もし」が付きまといます。

 私淑されているという向田邦子について、あなたはこう書いていらっしゃいますね。

向田邦子は51歳で亡くなることを、読者として我々は知っている。あと数年で自分の命が絶たれることも知らずに、この文章では未来への思いを語っている。読み手は、いずれ訪れる死を知っているからこそ、自分の死を知るはずもなく「いま」を生きている向田邦子の姿や思いに、どこか切なさを感じてしまうのだ。

既視の海note記事『全集を通読することで、作家の人生を「生きる」』より


 私は似たような感情を、有吉佐和子にも漫画家としての岡崎京子にも感じます。岡崎さんはもちろん亡くなったわけではないので不適切かもしれませんが、あの悲劇の前後の作品を読むときは、同じ切なさを感じるのです。それはもちろん、向田邦子の全集を読みながらひたひたと彼女の晩年に迫ったあなたとは比べようもない感情だとは思いますが。

語り得なかった言葉は何か。描き得なかった絵を、どのように観るか。現代文や美術の試験ではないので、正解はありません。ただ、自分の心から湧き上がる思いがある。それを表わすのにふさわしい言葉や表現がなくて、もどかしく、じれったいかもしれない。苦し紛れの妥協であったとしても、自分だけの言葉や文章を紡いだとき、はじめて「読んだ」という実感が得られます。それと同じもどかしさを抱きながら、同じ本を「読む」人がいるのだと信じるならば、読書は決して孤独な営みではなくなります。

あなたのお手紙からの抜粋

 同じ作家、同じ本を遠いどこかで互いに読んでいたこと、改めて今同じ本を読むことができたこと、そしてその本についてあなたと語り合うことができて――、そう、ついに孤独な営みではなくなっていると感じています。 
 今まさに、その喜びを味わっています。

 私はミステリを読むのが苦手です。せっかちなのです。その気質は読書の質を物語っています。浅く広く、色々な本を貪欲に求め、あれもこれもと都合の良い木の実を拾ってきては頬袋に詰め込むリスのような読書の仕方です。落ち着きというものがないのです。ある作家の作品をひとつ読めば、たちまちその作家を知ったような気になる――まさに小林秀雄氏が忌み嫌う読者と言えるかもしれませんね。

 それにひきかえ、あなたの読書は、丁寧で緻密。じっくりと根源に遡り、プロセスをたどっていくために、全集を紐解く。作家に寄り添い、理解するための誠実な努力を惜しまない、あなたのnoteから、そしてお手紙から、そんな印象を抱いています。

 あなたの数多くの記事の中から、マガジン『小林秀雄を読む日々』だけは、少しずつなんとか、読みました。ええ、といっても、「読んだ」とは言えません。数々の学びに瞠目しましたが、それは流れる川に木の葉が落ちて流れていくのを見るようなもので、また再び、あなたのマガジンを訪れることになると思います。まあ、リスなので、ついうっかり川に木の実を落としてしまって慌てるような、迂闊なことになるのかもしれませんが。

 こんな粗相ばかりの私ですが、遠方の友のひとりとして、時折尋ねることをお許しくださったら嬉しく思います。そしてもしよかったら、時折、往復書簡を交わすことが出来たら望外の幸せです。

 手紙が苦手だと言いながら、本の事ならこんなにも長く、節操なく書くのですからおかしなものですね。

 今週は雨ばかりと思っていましたが、私の住む場所では今日、梅雨の晴れ間のような蒸し暑さでした。あなたのところではいかがだったでしょう。

 そろそろ、鎌倉では紫陽花が見ごろを迎えます。私は鎌倉の三十三観音めぐりをしているので、また近々、鎌倉に行く予定です。

 鎌倉の東慶寺には、小林秀雄のお墓があります。
 ひっそりと苔むした、五輪塔のお墓です。

 では、また。
 蒸します時期、ご自愛ください。

敬具

 みらっち こと 吉穂みらい



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