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いかに生きるべきか――”考える”という智慧

 暑中お見舞い申し上げます。

 梅雨明けを待たぬうちからの猛暑でしたが、やはり、梅雨を抜けた暑さは乾きが違いますね。
 そうしていつか、立秋を迎えてしまうのでしょう。
 時は流れます。
 お返事、遅くなりました。

 小林秀雄の本を探しておりましたら、こちらのサイトに行き当たりました。

 小林先生は、作家であれ思想家であれ、誰かについて知りたいと思えば原文を読め、入門書や解説書は誤解のもとになると何度も言われていた。だから私は、生涯の終りまで、多くの人に小林秀雄の原文を読んでもらうための努力は続けるが、小林秀雄を手っ取り早くわかってしまいたい人たちの便になるような本は書かない、そう思い決めていた。

随筆 小林秀雄/池田雅延 「考える人」サイトより

 ぽつりぽつりと読み始めています。
 全集にあたっていくあなたの真摯な姿勢は、なるほど小林秀雄の姿勢であるのだなと納得している次第です。
 随筆の筆者の池田氏は上記のように言いながら、小林秀雄に近いところで謦咳けいがいに接してきた記憶を頼りにWEBにこのエッセイを書くことになったとのこと。いずれ、連載をまとめた本が新潮社から出る予定だそうです。

 このエッセイの最初には「小林秀雄と同時代に生まれたかった」という若い人からの手紙に池田氏が触発されたことが書いてあります。それこそが小林秀雄が願ってやまなかった「感覚」だ、というのです。芭蕉が生きているときに芭蕉に会った人が聞いた俳句と、彼がいない時代に聞いた俳句はずいぶん違っているはずだと、小林秀雄はその臨場感に焦がれたというのです。

 前回のあなたのお手紙にも、芭蕉についての小林秀雄の言葉が引用されておりましたね。そしてあなたのお手紙にも、

あくまでも人の営み、考え、信仰などは「無常」であり、すべては刻々と変化し続け、いまとなっては残っていないものもある。しかし解釈や意見、見方、批判などにもびくともしない不変的なもの、すなわち「歴史の本当の魂」がある。それが小林秀雄のいう「常なるもの」です。

あなたのお手紙
『刻々と変化し続けるもの、それでも変らないもの
——小林秀雄『無常という事』『歴史と魂』、
南直哉『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』
より

 とありました。

 『無常ということ』と『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』をめぐってのお話、大変興味深く面白かったです。これについて南氏の本や仏教などを通じてお話を深めたいことは沢山あるのですが、尽きませんのでここは置きたいと思います。
 一周廻ってたどり着いた小林秀雄の『無常ということ』について、

題名に「無常」を含むので、意識はそこに引っ張られがちなのですが、この随筆の主題は「無常」ではなく「常なるもの」ではないでしょうか。

あなたのお手紙
『刻々と変化し続けるもの、それでも変らないもの
——小林秀雄『無常という事』『歴史と魂』、
南直哉『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』
より 

 全くなるほどと思いました。

「歴史を思い出している私」が実存する。さらに「思い出される歴史」も実存する。みずから可能なのは、「歴史を思い出している」主体として自分が実存すること。小林秀雄は次のようにいいます。歴史を知るのは、自分の心の働きである。すなわち「歴史の本当の魂」を知ることは、自分自身をよく知ることだ、と。

あなたのお手紙
『刻々と変化し続けるもの、それでも変らないもの
——小林秀雄『無常という事』『歴史と魂』、
南直哉『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』
より

こうして、またもや「魂」が出てきてしまいました。

あなたのお手紙
『刻々と変化し続けるもの、それでも変らないもの
——小林秀雄『無常という事』『歴史と魂』、
南直哉『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』
より

 確かに――
 最後はやはり、魂にいきついてしまうのかもしれません。

 改めて、池田晶子の『人生のほんとう』を読みました。若い人にわかりやすいような語り口でさらりと書いてあるように見えながら、どの章も彼女が人生をかけて考え抜いたことのエッセンスが散りばめられていました。
 なるほど、『魂とは』より、さらに形になったものに感じられました。

 また、竹内整一の『「おのずから」と「みずから」——日本思想の基層』も手に取りました。あなたのお手紙にあった竹内整一『魂と無常』は図書館で見つけられなかったのです。
 予約をしようか――と思いましたが、この酷暑の中、図書館に何度も足を運ぶのが躊躇われ(笑)、電子書籍で読めるものをまず読んでみようと思いました。『魂と無常』が2019年で、『「おのずから」と「みずから」——日本思想の基層』が2023年だったので、よりまとまった形で読めるかもしれないという期待もありました。

 読んでみて、あなたがいまひとつ考えがまとまらないとおっしゃっていたのがなんだか理解できました。私もまとまらなかった――といいますか、戸惑いました。東大の先生のおっしゃることなので、きっと私の頭が悪いのだと思いますが、腑に落ちる感覚が得られませんでした。日本の歴史や過去から現代の文学作品まで紐解き「魂」のありかに「あわい」という、非常にあいまいな言葉をあえて選んでいるのはわかるのですが、たとえば『「おのずから」と「みずから」——日本思想の基層』に収められている質疑応答を読んでも、質問者に戸惑いが感じられ、氏の説明に質問者が納得している感じもなかったように思います。

 こちらを読んで、思い出したのは河合隼雄です。
 同じものを論じていても、心理学者の河合隼雄氏の古い論のほうがはるかに納得できるように私には感じられました。

 再び自分の過去のブログを持ち出すことをお許しください。

 ちなみにこのブログに出てきた小室直樹は、マックス・ヴェーバーの孫弟子ともいわれる数学者・社会学者です。天才・奇才と言われる反面、人格的にも思想的にも極端だったようで、攻撃的な論調で反発も招きやすくどの本も賛否両論ですが、その論には刮目する部分がいくつもありました。

 小室氏の『数学を使わない数学の講義』は2005年の刊行ですが、初版は昭和56年(1981年)です。無常と魂からは離れますので、ここでは詳細には触れませんが、私はこの本から日本的宗教観の考え方のひとつ(飽くまでひとつ)について、納得できる見解が得られました。また「批判というものはすなわち継承である」ということも学びました。「何かのテーゼに向かってアンチテーゼを提唱することは、先にあるテーゼを継承していることに他ならない」…弁証法とはつまり過去の継承であるということです。

 さて、「魂」「たましい」を語る時にユング心理学の第一人者、河合隼雄氏は欠かせないひとりだと思います。

 池田晶子は『人生のほんとう』の中で河合隼雄氏の息子さんの河合俊雄さんはお父さんの隼雄さんより「はるかにラジカルで面白い」と評価していました。河合隼雄氏については公の立場(当時文化庁長官)があるから倫理的なことを言わなければいけないんだろう、というにとどまっています。

 確かに河合隼雄から物語を通して「それがたましいだ」と言われると、強い納得感を覚えてしまうマジックというのでしょうか。そういうものがあったのも否定できないと思います。必ずしも「たましい」の定義があったかどうか、いろいろ思い返してみても、河合隼雄が明確に「たましい」を言葉で定義していたという記憶がありません。こころの大切なものとか、深層とか、そういったものとしてなんとなく自明のものとして語られていたような気がします(文献を調べての論文ではないので曖昧なことをお許しください)。

 それがフロイトが哲学史に登場するのにユングが登場しない理由でもあるのかもしれません。
 『宗教と哲学全史』などでもそうでした(この本には私は多少思うところがありますが)、それが現在の哲学の現実かもと思ったりもします。

 すみません。
 結局、脱線してしまいました。

 このところ『君たちはどう生きるか』というジブリの映画が話題です。
 私はジブリの映画はそれなりに楽しみますが、特別熱心な鑑賞者ではありません。映画はタイトルだけを宮崎監督の少年時代の愛読書にちなんでつけただけで、オリジナルストーリーだそうですね。賛否両論というこの映画がどのような映画であるかわかりませんが、以前、本は読みました。

 前述の『連載 随筆 小林秀雄』のサイトの中の連載17回目には、こんな言葉がありました。

人生いかに生きるべきか、人生の意味とは何かを死ぬまで考え続けた小林秀雄は、考えるということ自体についても徹底的に考えた。

『連載 随筆 小林秀雄』連載17回 考える葦 より

 どう生きるか、いかに生きるか、を考えるのが哲学であり、それを徹底的に考えるのは困難な道のりです。それは言葉で考えるからです。

 言葉とは明快に見えてとても曖昧なものです。
 自分の思う単語と同じ単語でも人によって理解や解釈が違うことなど日常茶飯事です。
 それであらゆる学問は最初に言葉を「定義」することから始めます。特に理性的なそれは「ロゴス」と呼ばれます。物語の言葉は「ミュトス」と呼ばれます。

 池田晶子は言います。

 「ロゴス」は哲学者たちの夢物語です。しかも、かつての哲学者たちは、今はみんな死んでいる人たちです。つまり、死者の言葉をわれわれは読んでいわけです。哲学書に限らず、文学書を読むのもそうですが、われわれは死者の言葉を読んでいるのです。
 そうしてみると、この世のわれわれの話している言葉は、すべて死者の言葉というふうに見えてきます。法律も慣習も伝統的なものも全部死者の言葉です。生者が死者の言葉を語っているのです。

池田晶子『人生のほんとう』p179

 池田晶子は、「言葉は言葉では何も伝えられないことを伝えるためのもの、むしろ沈黙を伝えるものだ」とも言っています。逆説的ですが、この世界が「無」であり「空」であるならば言葉を重ねれば重ねるほど何も言っていないのと同義になるということでもあると思います。池田晶子は晩年、禅のエッセンスに心惹かれていたようですね。

 この世の賢人の代表であるブッダとキリストがどちらも文字による経典を求めなかったように、特に仏教においては長い間その教義が不立文字であったように、真実の智慧とは文字や言葉によるものではないのかもしれません。本来「ない」とするものを表そうとする言葉は、ただ、消えゆく伝承にしか存在せず、文字としてつなぎとめておこうとしたとたんに無効化してしまうものなのかもしれません。人間にとって最も大切な智慧は考えること、なのであれば。文字という言葉にして石や木や紙に刻み付け、考えることをやめたとたんに、本来の智慧は消えてしまうのかもしれません。

 うつろいやすい無常の中の私たちは不動の「常なるもの」である「死者の言葉(歴史)」を使って言葉を定義し、批判し、批判することで継承し、さらなる命題を生み出してきました。小林秀雄が言うように「歴史を思い出す」「歴史の魂」を知るためには、自らの心の働きを使って、死者の言葉をあたかも今まさに体験しているように味わう必要があるのでしょう。そこには「ロゴス」よりも「ミュトス」に近い、「詩人の直感」「見交うこと」に通じる臨場感が必要であるということなのかもしれません。

 あなたのお手紙の言葉を思い出します。

自身の心や自我、みずからの精神、自分の本質的なものを示し、目には見えないから言葉で形を表象し、物語という形式で死後も存続する。それが魂のようです。分かったような、分からないような。ただ、ここでもう一度『私の文学史』に戻ったとき、「第九回 エッセイのおもしろさ」で、すとんと肚に落ちました。

あなたのお手紙
『書かずにはいられないもの——町田康『私の文学史』、
早川義夫『女ともだち』
より

 「本当のことを書くこと」がその真髄だと、あなたはそう腑に落ちたと、書いてらっしゃいました。あれからまためぐりめぐって、やはり「ロゴス」であろうが「ミュトス」であろうが「ほんとう」であることが魂に繋がることなのではないか、と、私もそう思いました。物語の言葉には、ファンタジーや嘘しかないというのはまやかしで、結局「ほんとう」だけしか残っていかないのではないか――

 池田晶子は「いかに生きるか」について「善く生きる」ということを言っていましたね。自分にとって「善く」生きるということです。

 この勝ち負け社会、これを格差社会と言うらしいですが、そういう社会でどうやって生き延びればいいんですかと、何を勘違いしてか、私も聞かれることがあります。けれどもそんなもの、生き延びる必要なんかないんです。そんなものと価値を共有する必要は全くない。世の中の大半が金を価値としても、私は金を価値としない。私がしたいことだけをする。つまり魂として善いことだけです。そういう意味でのしたいことだけをして、残りの人生を生きていきたい。世の中は関係ない。

池田晶子『人生のほんとう』p164

 
 椎名林檎は「価値は生命に従って付いてる」と『ありあまる富』で歌っています。この曲は個人的に、魂の本質を見事に表現している曲だと思っています。

 
 私見ですが、「いかに生きるか」ということで大切なことは、「How」や「do」ではなく、「be」なんだと思います。
 「どうあるか」。
 それはまさに魂に沿うことであり、「おのずから」そうであるように見せて、実はいのちとたましいについて当人が「みずから」必死に考えることでしか得られない視点だと思います(このあたりまでは「おのずから」と「みずから」は理解できるように思うのですが)。自分について、世界について、審美眼を磨くということでもあると思います。そして実際に成すのが最も難しいことでもあると思います。

 『人生のほんとう』の中でも、「運命は性格にあり」というヘラクレイトスの言葉と同じことを小林秀雄が言っている、と紹介されていました。

「彼は科学者にもなれただろう、軍人にもなれただろう、しかし、彼は彼にしかなることはできなかった。これは驚くべきことではないか」。そういうふうに、彼は魂としての存在の謎を述べたのです。

池田晶子『人生のほんとう』p140

 これこそが「be」ということなのではないか、と私は思うのです。

 暑い夏の夜に、考えれば考えるほど絡まってしまうようなもどかしさを感じながら、そんなことを考えました。

 どちらにしろ、魂の問題は大変深く、本を読めば読む程、また考えれば考えるほど、まるで深淵をのぞき込むかのようです。まさに「結論の出ないのがわかっていながら考える」ことに意義があるということになるのかもしれません。

 こんなふうにあちこちと寄り道をしながら本を読んだり、考えたりするきっかけをいただき、改めて感謝しています。考えている時間はとても楽しく、また新たな本に出逢うのもとても楽しいものです。

 もう少し本を読んだり、考えたりしてからお返事を送ろうと思いましたが、現時点でこんなふうに考えたことをお伝えしておきたくて、少々見切り発車ですが、お手紙を送ります。

 夜になっても蝉の声が止みません。
 人と会い口を開けば、お暑いですねしか互いに出てこないような夏。
 どうぞごくれぐれも自愛くださいませ。

 かしこ

みらっち こと 吉穂みらい

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