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異文化理解のためのラボとTwitter

 「お腹がすいた」というのがナチュラルに分からない。

 数年前に綾屋紗月さんが「発達障害当事者研究」でその構造を記述されていたのを読み,「!!!!!」と目玉をひんむいた。「今,まさに,私が(ナースとして)お話を聞いている方が困っていることと同じなんじゃないか!?」とピンときた。それは「お腹がすいた」という,表れている事象そのものの共通性ではなく,その大元にあるものが―この場合は,身体各部の情報がてんでばらばらにあがってきて,「お腹がすいた」という意味としてまとめあげることがゆっくり&難しいという知覚の統合の問題―様々な生活上の困りごとを引き起こしているように思えた。そしてそういう視点でもってお話を聞きながら一緒に整理をしていくと,色んなことがクリアになっていった。もちろん困っていることの根っこにある構造が分かったからとて,そこを直接改善することは難しい。でも,「なんでだか,どうしてだか,できない,困る」というようなことが,「たぶん,こういうところ(特性)からきている現象だね。」と分かると「自分にとってのお馴染みのこれ」になるし,それに対して様々な対処方法や工夫を考えて実践することができるようになった。そうやって,その方とは何年もの間「困りごと」を巡って現象そのものを探究し,そこにあるメカニズムを解明したり,うまくいく方程式を考えたりということをしてきた。そして私が支援の場を離れてからも,友人として「ラボ」という名のもとに活動を共にしている。

 この活動を「当事者研究」と言ってもいいのだろうけれども,当時者研究はあちこちですでに行われていて,それらとどこが同じでどこが違うのかも分からない。おまけに既存の当事者研究に「合わせて」いくことが目的なんではなくて,あくまでも出会っているこのメンバーで有用だと思うことを続けていくことが重要だと思っているので,「ラボ」と名乗って活動している(と私は考えている)。

 このラボ活動を通して,私はたくさんのことを学んできたのだけれども,今回取り上げたいのは大きく分けて二つある。

 まず一つ目。友人の「困りごと」を巡ってそのメカニズムを探究してきたのだけれども,考えてみれば当然のことだが,結局それは「わたし」のことを知り直す営みでもあった。つまり友人の「困りごと」の中には,「私が当然のことのようにしていること・当然だと思っていること(これこそ文化なんだと思う)」が当然でないから起こっているなんてことがたくさんあるわけで,「えっ,私はそれを一体どうやって・・・???」と考えなくてはならなくなったりする。そうやって私は私自身の「当たり前」について知ることになったし,それはやがて「自分の当たり前」を一度カッコに入れて人の話を聞いたりしたりすることにつながっていった。このあたりのことはもうすでにたくさんnoteに書いてきたので,ご興味のある方は「発達障害というテーマとのご縁」からの連続記事を読んで頂けるとありがたい。

 そして二つ目。当事者と言われる方々に起こっている現象を,たとえば「こだわり」とか一つのカテゴリーに入れて分かったような気になっていたけれども,「それがどのように成り立っているのか」とか「それがどのように経験されているのか」なんて私はちっとも知らなかったし,知ろうともしていなかったことに気づかされた。この怠慢は懺悔ものだけれども,事実なので受け入れるしかない。でも一言で「こだわり」と片づけられちゃうようなことも,その内実は多種多様であり,現れとしては似ているようでも,その成り立ちは全く違っているなんていうこともたくさんあった。そしてそういった学びは,ラボを通して得られたことでもあるのだけれども,実はTwitterもその種の学びの宝庫であることにこの1年くらいで気づいた。

 Twitter。
 あぁ色々と問題もありそうだけれども,すごいねTwitter。

 前にも書いたけれども,私はTwitterで呟くことはほとんどない。概ね気になるアカウントをフォローして,気になるツイートをリツイートするだけである。でもフォローさせてもらっている方の中に発達障害の当事者の方々や,保護者の方のアカウントがたくさん含まれているので,毎日タイムラインの中にそれらの方々の呟きや関連情報が流れてくることになる。それらに目を通していると,当事者といわれる人々の中にはものすごく言語化能力の高い方も数多くいらっしゃって,ご自身の「特性」なり「困っていること」などの現象を,その人自身の言葉で的確に表現されたツイートに出くわすことがかなりの頻度である。それは「起こったこと(現象)そのまま」であることもあるし,ある程度ご本人の解釈なり分析が加わったものもあるのだけれども,いずれにしても「えっ!そういうことなの!?」とビックリしたり,「そういうことだったら,あの人の,あの困りごとと共通してそう・・」と共通性を見つけられたりする。こういう表現は適切ではないかもしれないけれども,Twitterは当事者の経験という一次情報が日々大量に生みだされている場所とも言える。こんな場所はリアルにはない。ネット空間で触れることが出来るのも,一部の有名(当事者)ブロガーさんの経験談くらいじゃないだろうか。SNSとしてのTwitterがスゴイのは,そうした名のある方々ばかりではなく,市井の方々の日常の(雑多な)経験談が,「コンテンツとしてすっきりまとめられる」以前のありのままの形で大量に流れてくるところにある。それもリツイート機能があるものだから,フォロー同士の閉じた情報だけではなく,あちこちから拡散されてやってくるつぶやきもあり,毎日新鮮である。(楽しすぎて離れられないという弊害が。そんな状況をツイ廃というのだと,最近知った。)

 また当事者といわれる方々にとっては,身近ではなかなか同じような経験をしていたり,理解を示してくれる方に恵まれなくても,Twitterでは簡単に仲間と出会うことができる。そこで積極的にコミュニケーションをとろうと思えばとれるし,あるいは私のようにタイムラインを眺めているだけという参加も許されている。いずれにしても,「自分と同じような経験をしている」人たちが自身の経験を語り,共通点や差異などを見つけて経験を理解したり,情報交換をして助け合ったり日常的に励まし合ったりということが起こっている。こういう時代の「専門家」って一体なんなんだろうと考え直さなくてはならないような,精神医療の地殻変動みたいなものを感じなくもない。なんとなく一部の支援者はSNSを避けているようにも思うが,こういうことが起こっているということは知っておかないといけないような気がする。

 まぁ支援者とSNSの問題はさておき。
 ラボにしてもTwitterにしても,そこで知ったり見聞きしていることを「症例」だなんていうふうに思ったことは一度もない。いずれも興味深い現象だとは思うけれど,そこにあるものを端的に表現するとするならば,「私と異なる身体(主に脳や神経かな)由来で作られている異文化」に対する好奇心と敬意,というふうに言えるような気がする。外側から見える部分は同じように見えるのだけれども,世界に挺しているその身体のありようが異なっていて,それゆえに世界への住まいかたが違い,異なる文化を作っている。不謹慎に聞こえたら申し訳ないのだけれども,その文化はそれ自体とても「面白い」と私は思っているし,もっと知りたい,とも思う。異文化を通じて自らの文化を照らし返される形でもっと知りたいと思うし,異文化同士が出会うことを楽しみたい。現状は差別と排除という酷い状況が生まれてもいるけれども,異文化理解が進み,出会い方の仕組みが整っていけば変わっていくのではないかと期待をしている。もちろん,そこにコミットしていけよ!と,自分自身に対しても。

 支援やコミュニケーションの形は,こうやってどんどん水平の方向へシフトしていくんじゃないかな。その時の専門知なり,経験というのは,自分や他者が自らの文化や異文化を学ぶことを促したり,学ぶ環境や出会う環境をよりよくしていくことに貢献するという形をとるのではないかと思う。

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