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読書ログ 『批評について』 - ノエル・キャロル : 「批評とは何か?」を識者から学ぶ

はじめに

こんにちは。文を上手に書けるようになりたい人、みそいちです。
この記事は掲題の『批評について 芸術批評の哲学』についての読書レポートです。本著の発刊は2017年。著者のノエル・キャロルはアメリカの現代哲学批評の泰斗。アメリカ美学界会長を務めたこともある大物です。

本記事では本の要約のみを行います。
この本は、前回記事での課題:「世間がいう意味での『批評とは何か?』」を学ぶ試みの中で手にしました。本著の内容を踏まえ、自分の批評観のブラッシュも行いたかったですが、それを書くと長くなるため、感想パートは次回にしました。
批評の具体的手法と、主張に対する反論・再反論の議論ついては、スペースの都合から省略しております。


(今日の一曲)

紹介: 『批評について 芸術批評の哲学』

芸術批評の今

芸術批評がどうあるか/あるべきかを論ずる"批評の哲学"は、芸術の定義付けが進められた60年代を最盛期とし、今では美学分野の後塵を拝している。
芸術批評とは「理由による価値付け」に依る言語活動であるが、21世紀の批評家界隈では、価値付けそのものに否定的見解を示す理論家が少なくない。例えばアーサー・ダントー、フランク・リッチ、デボラ・ジョヴィット。彼らは、記述・文脈付け・分類・解釈などからなる、カルチュラルスタディーズと総称される研究こそを批評家の為すべき仕事とし、価値付け(判決)はそうではないと考える。
しかし、芸術消費がかつてない隆盛を迎える今、作品の歴史的文脈を振り返り、解剖学的にではなく、人間主義的にその価値を考えていく「価値付けによる批評」は、見直されて然るべきだろう。


批評から価値付けを撤退させようとする主張にはどのようなものがあるだろう? 反論を加えつつ列挙する。

  1. 作品の価値は批評に先立ちある(売上や人々の反応)。作品は既に選別されており、価値付けとしての批評はそれが期待する効果がない。

    • [反論]→ だとして、批評は最初の価値付けでなく最後の価値付けを行うということでしかなく、価値付けが無意味と言えない。

  2. 価値付けは美術館やコレクターが行う仕事だ。批評家はその文脈づけや記述など、聴衆と作品の紐付けを行うことに専念すべきだ。

    • [反論]→ 対象に「価値があること」を説明するには「どのように価値があるか」の説明が不可欠で、価値付けが不要とは言えない。

  3. 芸術家でもない批評家が作品に指図をするのは、芸術家の支援にならない

    • [反論]→ 批評は「こうなっている」と示すだけであり「こうしろ」というのは誤りである。批評家が期待されているのは、作品の効果・結果の説明であり、「適切な過程で制作されたか」ではない。

  4. 理由に基づく価値付けは幻想である。政治的な(個々人の好みによる)価値付けがあるにすぎない。

    • [反論]→ 政治的な批評はあるが、全てではない。作品の分類などが可能であるように、共有可能な価値付けは存在する。

  5. 芸術はユニークで一般的な評価基準はない。批評の価値付けには正当性がない。

    • [反論]→ 確かに芸術は独自性があるが、全く共約不可能とするのはロマン主義がすぎる。作品が置かれたジャンル・様式・作品群の中で、どのように位置付けられるかは言い得る。また、情動に依るとしても、それが論理性を欠くとは言えない。例えば、「恐怖は有害性の把握に結びついている」など、ある種の情動にはそれが根ざす認知パターンがある。故に、美の感覚が個々人の中にあるとしても、それは完全にその人独自という意味ではなく、間主観性を持つものとして収斂しうる。

批評に現れる芸術の2つの価値

批評の対象は、作品そのものというより、そこで現れる「広い意味での人間の営み」である。それは大別すると、芸術家と鑑賞者。つまり、「芸術家は何をやっている/いたのか」と「作品を通じ鑑賞者は何をしたか」である。芸術家側の目的の達成を成功価値、鑑賞者の価値ある経験の確度を受容価値としよう。
批評の要点は、「作品のどこに価値があるのか」を示すことにあるので、成功価値の方がより基礎的になる。成功価値をターゲットにする批評とは、作品で狙う目的がどのように適切に達成されたか/されなかったかを考えること(人間の行為は目的を伴うわけだが、制作においてそれがどのように適切かを論じるところ)にある。


受容価値を批評の中心とする立場もある。特に18世紀以降の芸術は、かつての宗教画や人物画にあった社会的目的を無くし、純粋な「特定の快楽」(芸術鑑賞以外では得られることができない鑑賞経験)を与えるものとして存在するようになった。このような、芸術がもたらす快楽・経験に価値の根幹を設定する立場が、受容価値を中心とする考え方だ。

この受容価値中心主義の立場では、独創性(例えば真作と贋作では価値が異なる)や歴史性(それが歴史的にどう位置づけ可能か)を汲みあげることができない。受容価値の称揚は、いかなる対象も如何様にも評価可能とするカオスをもたらす。これは、「どのような駄作であれ、如何に楽しめるようにするか」だけを目標とするのでない限り、理解できない。

私たちの受容実践は、芸術的卓越の追走にある。ならば、作品の第一の価値は成功価値であり、それを踏まえてこそ、どのような受容が可能かを検討できるようになる。
故に、批評家は作品の歴史性や文脈付けを行う必要がある。批評家において作品とは、芸術家の行為者性を提示するものだ。成功価値を見極めるにあたり、第一には芸術家の意図・ゴールポストを理解することが必要だ。
鑑賞者はそのような批評家からのインスパイアを受けることで、より豊かな批評プロセスを実践できるようになるだろう。

価値付けの役割と限界

上記までの主張に則り、理由による価値付けがなされたとする。それは、ここまでの議論を踏まえれば、客観的批評たる資格を備える。しかし芸術の一般法則が存在しない中で、本当に客観的批評は存在しうるのだろうか?


哲学者であるヒュームは、趣味という言葉で美を主体的経験と論じた。それは、主体のうちで発生するという意味で主体的だし、判断が高度に私的で多様性・独自性あるもの、つまり行為者相対的という意味でも主観的だ(とはいえ、ヒュームは人間の知覚の斉一性に触れ、美を間主観的なものとした)。
しかしながら、批評ーあるいは芸術の射程は、美に留まらない。それは生得的な知覚システム以上の知的達成だ。つまり、趣味(主観的快楽)の問題に回収されるものが、批評や芸術の全てではない。


もう一点の批評の主観性を支持する主張を紹介しよう。それは、批評の原理が存在しないのだから、批評的判決の起点となるのは批評家の主観的好みに過ぎないとするものだ(アーノルド=アイゼンバーグ-メアリー=マザーシル)。具体的には

  1. この作品は性質Fを持つ

  2. 性質Fを持つ作品はいい芸術作品だ

  3. 従って、この作品はいい芸術作品だ

という論理において、あらゆる場合に妥当する性質Fはないという主張だ。故に、批評家は論理的価値付けは不可能で、特定の作品へのえこひいきを表明・説得するために言葉を尽くしているに過ぎないとする。

これは究極においては確かに当てはまるかもしれない。しかし、対象がある種の目標を共有し特定のカテゴリーに依拠する場合、十分な一般性を持つ条件Fは設定できる。
物理学は、「他の条件が等しければ」という但し書きから、一般則を設定する。芸術においてもそれは可能であり、その出発点はカテゴリーの分類になるだろう。

おわりに

如何でしょうか?批評の論理の全体を攫いつつ、考察を深めていく為の論点を分かりやすくまとめてくれる良書と感じ取れました。(この記事の読者の方にもその様に届いてくれれば嬉しい限り)。

最後に、本著で示された論点を振り返り、批評論を深めて考えていく為の下準備を進めてみます。

  1. 芸術をどの様に論じるかには、大きく2つの批評的な立場がある。対象のコンテキストを設定するにとどめる解釈的批評と、積極的な価値付けを行う価値づけ的批評。
    著者は、価値付けが語りにおいて必然性を持つという立場から、後者を支持している様に読める。

  2. 芸術の価値には、大きく2つのレイヤーに分けられる。作者の達成から計られる成功価値と、鑑賞者がどの様に受容したかから計られる受容価値。
    筆者は、芸術的卓越を追想するという鑑賞の目的に鑑みて、前者に重きを置くことを支持する。

  3. どの様に主観に寄らずに芸術を語れるかには議論がある。
    筆者は、芸術は趣味によるだけのものではないとし、カテゴリーを始めとする大勢が同意可能な分類から、一般的な議論を始められると考える。

次回、これらの論点を下敷きに、私たちが日常で行える形での批評とはどうあるか、考察を深めていこうと思います。

何か気づきや見解がありましたら、コメントなど頂けると嬉しいです!

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