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三上延『百鬼園事件帖』 まだ何者でもない内田百閒が挑む謎と恐怖

 『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズで知られる三上延が、内田百閒を題材に描くホラーミステリ(しかしその実、結構ストレートなホラー)であります。

 昭和六年の冬の晩、いきつけの神楽坂の喫茶店・千鳥で、自分の通う大学のドイツ語教授・内田榮造と出くわした大学生・甘木。成り行きから内田とテーブルを囲むことになった彼は、店を出た後で、内田の背広と自分の背広をを取り違えていたことに気付きます。とりあえず内田の背広を着て帰ったその晩、奇怪な夢を見た末に、高熱を出してしまった甘木。見舞いに来た友人の青池に、そのことを語った甘木ですが、その夢に興味を抱いた青池は内田の背広を持ち去り、そのまま行方不明に……
 という「背広」に始まる全四話で構成された本書は、甘木青年を狂言回しに展開する連作集です。
 後に幻想的な作風の小説や、諧謔味に富んだ随筆で知られることになる百鬼園こと内田百閒。しかし物語の舞台となる昭和初期は、初の作品集『冥途』も話題とならず、法政大の教授として口を糊していた時期です。そんな内田と行動を共にすることになる甘木も、あまりに印象が薄く周囲からすぐに忘れられてしまうような青年――縦に書くと「某」と無個性なものになってしまう自分の名にコンプレックスを持つ人物です。(実はこれは、内田の随筆で名前を伏せた人物を「某」ではなく「甘木」と書いたことから取られているのが楽しいところです)

 本作では、内田の姿を史実に基づき丹念に描きつつ、まだ何者でもない中途半端な二人が遭遇する出来事――百閒の小説に登場するような、どこか不穏で落ち着かない、そんな空気の漂う出来事を描きます。
 内田の(実はこれはある著名人の形見なのですが)背広を手に行方をくらました青池を追う「背広」。体調を崩して倒れた千鳥の女給が、客によって別人のような顔を見せる謎を、彼女の飼う猫にまつわる怪異を交えて語る「猫」――冒頭二話はこうした空気感を湛えつつも、ミステリ的な要素を比較的多めに配して描かれます。

 が、中編となる第三話「竹杖」では、大きく趣きを変えて物語が展開していくことになります。内田邸に向かう途中の都電の中で、カンカン帽を被り竹杖をついた和服の男と出会った甘木。その後、内田邸で、内田とうずまきを描いたと思しき奇妙な絵(以下の「百鬼園随筆」の表紙を参照)を見つけた彼は、内田の元教え子である笹目から、それを描いたのが内田と親交のあった芥川龍之介であること――そしてこの絵がドッペルゲンガーを書いたものであり、龍之介も自分の分身を見ていたことを聞かされます。

 内田邸から帰る途中、かつて内田の弟子の一人・長野初の分身を目撃し、その直後に彼女が震災で亡くなったこと、その後も時折町中で初の姿を見かけること――そして彼女のような分身たちには、目に一つの共通点があることを甘木に語る笹目。その直後にあのカンカン帽の男を見かける甘木ですが、笹目は、あれは芥川だと語り……
 と、始まりは物語の九年前におきた関東大震災にまつわる幽霊譚かと思いきや、実はドッペルゲンガーの存在がクローズアップされるこのエピソード。芥川が死の直前に自分の分身と出会っているのは有名ですし、内田が親交のあった芥川の死を題材に「山高帽子」を記していることも事実ですが、物語はやがて想像を絶する方向に向かっていくことになります。
 詳細は伏せますが、静かに展開していた物語は、後半一気に不穏の度合いを高め、この世のどこかに潜む分身たちの恐怖を描いていくことになります。そして千鳥で迎えるクライマックスで、それは極限に達することになるのですが――いやはや、まさか大正の東京で『ボディ・スナッチャー』を目の当たりにすることになるとは、まったく思いもよりませんでした。
 そんな恐怖譚が展開する一方で、作家としての業と人間性の間で苦しむ内田の姿を、そしてその内田と芥川の友情を、同時に描いてみせるという離れ業を演じるこのエピソード。これらが渾然一体となったカタストロフの中で明らかになるタイトルの意味――そこには、不思議な、そして異様なまでの感動があります。

 そしてかつて甘木のように内田と行動を共にし、病で亡くなった学生にまつわる、不思議な温かみを持つ奇譚「春の日」を以て、本作はひとまず完結することになります。
 しかし内田榮造が内田百閒として知られるようになるのはこれからであり――そしてこの偏屈で不器用な優しさを持つ内田と、甘木の物語もまだまだ続くのでしょう。百閒の作品のように不穏で不思議な味わいの、そして時に極めて恐ろしい物語の続きを期待します。


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