見出し画像

温故知新(48)音羽古墳群 聖徳太子 神八井耳命 天足彦国押人命(天押帯日子命 和邇日子押人命) 神皇産霊尊(神産巣日神 神魂命)

 モロッコのアラビア語での正式国名は、アル=マムラカ・アル=マグリビーヤで、「日の没する地の王国」を意味しているのだそうです。聖徳太子が遣隋使に託して中国の隋の煬帝に宛てた国書に記された「日出處天子致書日沒處天子 無恙云云(日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや)」が連想されます。

 モロッコのマラケシュの近くにあるクサール・ヌアイラと豊受姫命と推定される大宜都比売命を祀る上一宮大粟神社(徳島県名西郡神山町)を結ぶラインの近くには、三島神社(女島神社)(島根県松江市)、福榮神社(鳥取県日野郡日南町)、豊受姫命と推定される妙見菩薩を祀る妙見宮(岡山県倉敷市)があり、上一宮大粟神社とマラケシュを結ぶラインの近くには、玉比咩神社(岡山県玉野市)、備中國総社宮(岡山県総社市)、常磐神社(島根県安来市)、伊弉諾尊・天津彦根命を祀る眞名井神社(島根県松江市)があります(図1)。

図1 クサール・ヌアイラと上一宮大粟神社を結ぶライン(左)と三島神社、福榮神社、妙見宮、上一宮大粟神社とマラケシュを結ぶライン(右)と玉比咩神社、備中國総社宮、常磐神社、眞名井神社

 上一宮大粟神社、大山祇神社眞名井神社(籠神社奥宮)をラインで結ぶと、大山祇神社と眞名井神社(籠神社奥宮)を結ぶラインは、上一宮大粟神社とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。ラインの近くには、伊射奈美神社(徳島県美馬市)、曽根天満宮(兵庫県高砂市)があります(図2)。

図2 上一宮大粟神社、大山祇神社、眞名井神社(籠神社奥宮)を結ぶラインと伊射奈美神社、曽根天満宮、上一宮大粟神社とマラケシュを結ぶラインと玉比咩神社、備中國総社宮、常磐神社、眞名井神社

 マラケシュと大湯環状列石を結ぶラインは、亀ヶ岡石器時代遺跡を通り、クサール・ヌアイラと大湯環状列石を結ぶラインは、稲村崎神社(青森県つがる市)、下相野観音堂(青森県つがる市)、海童神社(青森県北津軽郡板柳町)、豊受神社(青森県南津軽郡田舎館村)、三社神社(青森県平川市)、古懸山不動院國上寺(青森県平川市)の近くを通ります(図3)。クサール・ヌアイラと大湯環状列石は関係があると推定され、ライン上に豊受姫命を祀る神社が複数あるのは、クサール・ヌアイラの女神信仰と関係があると推定されます。古懸山国上寺は、610年に聖徳太子の命を受け秦川勝公が阿闍羅山上に伽藍を造営したのに始まるようです。聖徳太子は、クサール・ヌアイラにルーツがあると考えていたのかもしれません。クサール・ヌアイラがアトランティスと関係があるとすると、斑鳩寺にムー大陸のような島が描かれた地球儀(地中石)が奉納されたことと関係があると思われます。十和田の語源はアイヌ語に由来するといわれますが、東北ピラミッドゾーンにある十和田は、昔は「十輪田」といい、「丸に十字」すなわち大根源を表すという説もあるようです1)。

図3 クサール・ヌアイラと大湯環状列石を結ぶライン(左)と稲村崎神社、下相野観音堂、海童神社、豊受神社、三社神社、古懸山不動院國上寺、大湯環状列石とマラケシュを結ぶライン(右)と亀ヶ岡石器時代遺跡

 クサール・ヌアイラと豊受大神宮(外宮)を結ぶラインは、金劔神社(福井県三方上中郡若狭町)、音羽古墳群(滋賀県高島市)、白鬚神社(滋賀県高島市)、厳島神社(弁財天社)(滋賀県近江八幡市)の近くを通ります(図4)。音羽古墳群に見られる、奥壁に棺台が置かれて屍体を奥壁に平行に安置する形式は、聖徳太子墓の三骨一廟形式につながる葬法として興味深いとの見方があるようです。また、音羽古墳群の玄室からは、フリュギア人の武具隼人の楯に見られるような渦巻文や双渦巻文の刻まれた太刀が見つかっています(滋賀文化財だより No.91 1984.9.30 124 . 音羽古墳群調査顛末記 高島町・音羽)。

図4 クサール・ヌアイラと豊受大神宮(外宮)を結ぶラインと金劔神社、音羽古墳群、白鬚神社、厳島神社

 クサール・ヌアイラと孝元天皇(大国主命と推定)の陵墓と推定される備前車塚古墳を結ぶラインは、大国主命の「再生神話」の地である赤猪岩神社(鳥取県西伯郡南部町)や諏訪宮(岡山市北区)の近くを通り、備前車塚古墳とマラケシュを結ぶラインは、天計神社(岡山県加賀郡吉備中央町)や神奈川神社(鳥取県日野郡江府町)の近くを通ります(図5)。『古事記』の大国主命の「再生神話」では、八十神たちに殺された大国主神は、高天原の神産巣日神が遣わした豊受姫命と推定される𧏛貝比売・蛤貝比売によって蘇生されていることから、クサール・ヌアイラは高天原にあったと思われます。そうすると、クサール・ヌアイラとつながっている音羽古墳群(図4)には、神産巣日神(神皇産霊尊)の墓があるのかもしれません。

図5 クサール・ヌアイラと備前車塚古墳を結ぶライン(左)と赤猪岩神社、諏訪宮、備前車塚古墳とマラケシュを結ぶライン(右)と天計神社、神奈川神社

 備前車塚古墳、亀山八幡宮(広島県神石郡神石高原町阿下)、宇倍神社(鳥取県鳥取市国府町)をラインで結ぶと、亀山八幡宮と宇倍神社を結ぶラインは、備前車塚古墳とクサール・ヌアイラを結ぶラインとほぼ直角に交差し、ラインの近くには温宇井神社(ぬくういじんじゃ)(鳥取県八頭郡智頭町)、瀧神社(奥の院)(岡山県勝田郡奈義町)、善光寺(岡山県真庭市)があります(図6)。亀山八幡宮は品陀和気命(応神天皇)を祀っていますが、鬼の城跡と同緯度にあり(図6)、品陀真若王(出雲建)を祀っていると推定され、このラインは、品陀真若王と宇倍神社の創建に関わっていると思われる伊福部氏との関係を示していると推定されます。

図6 備前車塚古墳、亀山八幡宮、宇倍神社を結ぶラインと鬼の城跡、善光寺、温宇井神社、瀧神社(奥の院)、備前車塚古墳とクサール・ヌアイラを結ぶラインと諏訪宮、赤猪岩神社

 ジェベル・イルード遺跡とラインでつながっているスカラ・ブレイ(図3)は、オリンポス山、サントリーニ島、ラス・ダシャン山ともレイラインでつながっています。橘寺と備前車塚古墳と音羽古墳群をラインで結び三角形を描くと、備前車塚古墳と音羽古墳群を結ぶラインは、橘寺とスカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。備前車塚古墳と音羽古墳群をラインの近くには、兵庫県西脇市の産霊神社(うぶすなじんじゃ)、福徳寺(京都市右京区)があり、橘寺とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くには法起寺(奈良県生駒郡斑鳩町)と金峰神社(弥仙山 奥宮)があります(図7)。十一面観音を本尊とする法起寺は、奈良県生駒郡斑鳩町岡本にあり、この地は聖徳太子が法華経を講じた「岡本宮」の跡地といわれています。産霊神社(西脇市)は木花開耶姫命を祀っていますが、元は神産巣日神を祀っていたのではないかと思われます。

図7 橘寺と備前車塚古墳を結ぶライン、備前車塚古墳と音羽古墳群を結ぶラインと産霊神社、福徳地、音羽古墳群と橘寺を結ぶライン、橘寺とスカラ・ブレイを結ぶラインと法起寺、金峰神社

 「石の宝殿」で知られる兵庫県高砂市にある生石神社は、バールベックと同じ北緯34度にあります。バールベックと不動山の巨石(和歌山県橋本市)を結ぶラインは、大山(鳥取県西伯郡大山町)、神功皇后ゆかりの破磐神社(兵庫県姫路市)、生石神社の近くを通ります(図8)。「石の宝殿」は、『播磨の国風土記』に「聖徳太子の時代に物部守屋が作った」と書かれていることから、このレイラインは、フェニキア人と物部氏の関係を示していると推定されます。

図8 バールベックと不動山の巨石を結ぶラインと大山、破磐神社、生石神社

 音羽古墳群は、諏訪地方にある縄文時代の平出遺跡と生石神社を結ぶラインの近くにあり、出雲大社と船木三ッ石とも呼ばれる沖の白石を結ぶラインの近くにあります(図9)。「船木」が「フェニキア」と関係があるとすると、音羽古墳群はフェニキア人と関係があると推定されます。船木平出遺跡と生石神社を結ぶラインの近くにはロドス島とつながっている岩屋岩蔭遺跡(岐阜県下呂市)があります。生石神社の御神体の「石の宝殿」は、伝承によると聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされ、音羽古墳群は、生石神社とつながっていることから、音羽古墳群は物部氏と関係があると推定されます。物部氏がフェニキア人と関係があるとすると、諏訪の守矢家の家紋である「丸に十字」がエーゲ文明の線文字Bと関係があると推定されることと整合します。レイラインの描く十字は、ケルトの十字や、「墨書土器」の「田」の字形、行燈山古墳から出土した銅板の「田」の字形、出雲大社の九本の柱が「田」の字に並んでいることなどとも関係があるかもしれません。

 物部氏の祖は宇摩志麻遅命(孝元天皇と推定)で、初代聖徳太子は孝元天皇の子の崇神天皇と推定されるので、備前車塚古墳の被葬者と推定される孝元天皇は、物部氏と聖徳太子の共通の祖先になります。

図9 平出遺跡と生石神社を結ぶラインと岩屋岩蔭遺跡、伊吹山、生石神社と出雲大社、出雲大社と沖の白石を結ぶラインと音羽古墳群

 気比の松原は、継体天皇と関係があると推定される大虫神社と、神功皇后の陵墓と推定される富雄丸山古墳を結ぶライン上にあります(図10)。気比の松原と音羽古墳群と伊吹山は、ほぼ正三角形の位置にあります(図10)。伊吹山に多く分布する「イブキジャコウソウ」は、ヨーロッパ原産の薬草で、伊吹山や気比の松原はレイラインでロドス島とつながっているので、もしかすると、ロドス島を出たケーペウス(ケフェウス)の乗ったアルゴー船が気比の松原に漂着して、一部の乗組員が住みつき、 伊吹山で薬草を栽培し、音羽古墳群に墓をつくったのかもしれません。そして、彼らのルーツがクサール・ヌアイラだったのかもしれません。

図10 大虫神社と富雄丸山古墳を結ぶラインと気比の松原、音羽古墳群、伊吹山

 気比の松原と音羽古墳群と伊吹山をラインで結び三角形を描き、気比の松原と伊吹山を結ぶラインと直角になるように、音羽古墳群からラインを引くと大湯環状列石に到達します(図11)。これは、音羽古墳群と大湯環状列石が共にクサール・ヌアイラとレイラインで結ばれていることと整合します。

図11 気比の松原と音羽古墳群と伊吹山を結ぶライン、音羽古墳群と大湯環状列石を結ぶライン

 大湯環状列石(北緯40度16分)は、オリンポス山(北緯40度05分)と近い緯度にあります。伊弉諾命の黄泉国訪問の神話は、ニュージーランドのマオリ族のあいだに伝わる神話に似ているといわれますが、ギリシャのオルペウス伝説との類似性のほうがいっそう著しいといわれています2)。オルペウスは、アルゴナウタイにも加わっています。アルゴナウタイが渡来したとすると、出雲建(品陀真若王)がディオニュソスと見なされたり、古墳時代初期の甲冑が西洋式に近いことの説明もつきます。

 初代神武天皇の皇子(第2代綏靖天皇の同母兄)で、多臣(多氏)及びその同族の祖とされる神八井耳命の墓は不詳ですが、『日本書紀』では、神八井耳命は「畝傍山北」に葬られたと記され、畝傍山の北に所在する八幡神社(奈良県橿原市山本町)の社伝では、同社は神八井耳命の墓の所在地であるといい、古くは「八井神社」と称されたとしています。神武天皇陵と音羽古墳群を結ぶラインの近くには、帯解寺(奈良市今市町)、東大寺(奈良市雑司町)、弘法大師 南都草庵 空海寺(奈良市雑司町)、蛭子神社(奈良市川上町)、吉田三大神社(滋賀県草津市)があり、音羽古墳群と八幡神社(八井神社)を結ぶラインの近くには、猿丸神社(京都府綴喜郡宇治田原町)、般若寺(奈良市般若寺町)、興福寺(奈良市登大路町)、元興寺(奈良市中院町)、御霊神社(奈良市薬師堂町)、唐古・鍵遺跡史跡公園があります(図12、13、14)。吉田三大神社は、元は伊富伎神社だったようです。猿丸神社の猿丸大夫は、猿田彦命と関係があるのではないかと思われます。御霊神社は、桓武天皇の勅命により御霊を慰めるために創祀された神社です。レイライン上に藤原氏の寺があるのも同様な意味があると思われます。これらのことから、八幡神社(八井神社)には神八井耳命の墓があり、音羽古墳群は、神武天皇や神八井耳命と関係があると推定されます。

図12 神武天皇陵と音羽古墳群を結ぶラインと吉田三大神社、音羽古墳群と八幡神社(八井戸神社)を結ぶラインと猿丸神社
図13 神武天皇陵と音羽古墳群を結ぶライン(右)と東大寺、弘法大師 南都草庵 空海寺、蛭子神社、音羽古墳群と八幡神社(八井戸神社)を結ぶライン(左)と般若寺、興福寺、元興寺、御霊神社
図14 神武天皇陵と音羽古墳群を結ぶラインと帯解寺、東大寺、音羽古墳群と八幡神社(八井戸神社)を結ぶラインと御霊神社、唐古・鍵遺跡史跡公園

 聖徳太子(厩戸皇子)の生誕の地とされている橘寺(奈良県高市郡明日香村)と音羽古墳群を結ぶラインの近くには大和神社(奈良県天理市)、石上神宮(天理市)、浄瑠璃寺(京都府木津川市)があります(図15)。

図15 橘寺と音羽古墳群を結ぶラインと大和神社、石上神宮、浄瑠璃寺

 また、音羽古墳群と法隆寺を結ぶラインの近くには、神功皇后の陵墓と推定される富雄丸山古墳があります(図16)。音羽古墳群は、聖徳太子、神功皇后、物部氏と関係があると推定されます。

図16 音羽古墳群と法隆寺を結ぶラインと富雄丸山古墳

 音羽古墳群と聖徳太子(厩戸皇子)の上宮(かみつみや)である可能性が高いとされる上之宮遺跡 (奈良県桜井市)を結ぶラインは、檜原神社大神神社(三輪明神)を通ります(図17)。このレイラインは、上之宮遺跡が聖徳太子(厩戸皇子)と関係があることを示していると推定されます。

図17 音羽古墳群と上之宮遺跡を結ぶラインと檜原神社、大神神社

 丹生都比売神社とハドソン湾を結ぶラインの近くには、聖徳太子磯長墓(叡福寺北古墳)、龍王社(奈良県生駒市)、浮御堂(滋賀県大津市)、音羽古墳群、善隆寺(滋賀県長浜市)、白山神社(福井県越前市)、永平寺(福井県吉田郡永平寺町)、和珥氏の墓と推定される雨の宮古墳群があります(図18)。これは、紀元前9,600年以前の北極点(ハドソン湾)を指標にしたレイラインと推定されます。音羽古墳群は、丹生氏や和珥氏と関係があると推定され、音羽古墳群には、丹生氏系図の最初にある神皇産霊尊(神産巣日神)の墓があると推定されます。「音羽」は、神八井耳命を祖とする丹羽氏の「丹羽」と関係があるのではないかと思われます。「羽」は、天女の「羽衣」と関係があるかもしれません。

図18 丹生都比売神社とハドソン湾を結ぶラインと聖徳太子磯長墓(叡福寺北古墳)、龍王社、浮御堂、音羽古墳群、善隆寺、白山神社、永平寺、雨の宮古墳群

 音羽古墳群と雨の宮古墳群を結ぶラインの近くには、十一面観音立像のある善隆寺(滋賀県長浜市)、弁財天白龍王大権現(福井県吉田郡永平寺町)、鹿島神宮やデーノタメ遺跡や諏訪大社とつながっている天照皇大神社尾山神社(石川県金沢市)、白山神社(石川県かほく市)、鷹王山 長楽寺(石川県鹿島郡中能登町)などがあります(図19)。和珥氏の祖の和邇日子押人命は、彦五瀬命(天押帯日子命 天足彦国押人命 天照皇大神)と推定されるので、音羽古墳群と和珥氏との関係を示していると推定されます。

図19 音羽古墳群と雨の宮古墳群を結ぶラインと善隆寺、弁財天白龍王大権現、天照皇大神社、尾山神社、白山神社、鷹王山 長楽寺

 天照皇大神社と和邇日子押人命の墓と推定される纒向石塚古墳(奈良県桜井市)を結ぶラインは、吉峰寺(福井県吉田郡永平寺町)、須波阿湏疑神社(福井県今立郡池田町)、有漏神社(滋賀県長浜市)、沖の白石、長命寺(滋賀県近江八幡市)の近くを通ります(図20)。須波阿湏疑神社(すわあずきじんじゃ)は、諏訪大社の御分霊(建御名方神)を勧請したのが始まりとされています。このラインは、和邇日子押人命が天照皇大神であることを示していると推定され、彦五瀬命長髄彦の放った矢に当たり亡くなり、竈山に墓が築かれたという話は創作と考えられます。

図20 天照皇大神社と纒向石塚古墳を結ぶラインと吉峰寺、須波阿湏疑神社、有漏神社、沖の白石、長命寺

 猿田彦命と関係があると推定されるデーノタメ遺跡アブ・シンベル神殿を結ぶラインは、雨の宮古墳群を通り、このラインは音羽古墳群と雨の宮古墳群を結ぶラインと直角に交わります(図21、22)。このラインは、和珥氏の一族の姥津媛(台与と推定)が女神イシスと見なされたと推定されることと整合します。

図21 雨の宮古墳群と音羽古墳群、音羽古墳群とデーノタメ遺跡を結ぶライン、デーノタメ遺跡とアブ・シンベル神殿を結ぶライン
図22 雨の宮古墳群と音羽古墳群を結ぶラインと天照皇大神社、音羽古墳群とデーノタメ遺跡を結ぶライン、デーノタメ遺跡とアブ・シンベル神殿を結ぶラインと雨の宮古墳群

 日吉神社(滋賀県高島市今津町梅原557)と棚畑遺跡を結ぶラインの近くに十一面観音像と薬師如来像がある西野薬師堂(滋賀県長浜市)と岩屋岩蔭遺跡があり、棚畑遺跡と猿田彦命を祀る白髭神社(滋賀県高島市)を結ぶラインの近くに伊吹山があります。白髭神社とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くに音羽古墳群と闇見神社(福井県三方上中郡若狭町)があり、白髭神社とスカラ・ブレイを結ぶラインは棚畑遺跡と日吉神社を結ぶラインの延長線とほぼ直角に交差します(図23)。闇見神社は、創建以後一千年余といわれ、祭礼日には、頭渡しの儀・王の舞・獅子舞・地搗の神事等があって、神輿渡御が行われるようです。

図23 日吉神社と棚畑遺跡を結ぶラインと西野薬師堂、岩屋岩蔭遺跡、棚畑遺跡と白髭神社を結ぶラインと伊吹山、白髭神社とスカラ・ブレイを結ぶラインと音羽古墳群、闇見神社

 音羽古墳群と高皇産巣日神、神産巣日神を主祭神とする皇産霊神社(兵庫県尼崎市瓦宮)を結ぶラインの近くに上賀茂神社(京都市北区)、梅宮大社(京都市右京区)、金蔵寺(京都市西京区)があります。また、皇産霊神社と椿大神社を結ぶラインに近くに垂水神社(大阪府吹田市)、田村神社(滋賀県甲賀市)があり、椿大神社(三重県鈴鹿市)とオリンポス山を結ぶラインの近くに日吉神社(滋賀県高島市勝野2763)があります(図24)。椿大神社とオリンポス山を結ぶラインは、皇産霊神社と音羽古墳群を結ぶラインの延長線とほぼ直角に交差します(図24)。これらのレイラインから、音羽古墳群は、猿田彦命(猿田毘古神)とも関係があると推定されます。猿田彦命(猿田毘古神)のY染色体ハプログループはC1a1系統なので、神皇産霊尊(神産巣日神)と猿田彦命(猿田毘古神)が同族とすると、神皇産霊尊(神産巣日神)は女神と推定されます。神皇産霊尊(神産巣日神)は、『出雲国風土記』では土地神たちの御祖の「神魂命」の名で書かれ、母系社会の系譜上の母神として存在したと考えられています。

図24 音羽古墳群と皇産霊神社を結ぶラインと上賀茂神社、梅宮大社、金蔵寺、皇産霊神社と椿大神社を結ぶラインと垂水神社、田村神社、椿大神社とオリンポス山を結ぶラインと日吉神社

 国立遺伝学研究所の斎藤成也教授は、かりに20世代前、およそ500年ほど前までさかのぼると、数千人がひとりの先祖になっていて、(核DNAでみると)遺伝的には、過去に生きていたたくさんの人々からすこしずつDNAが受け継がれて、現在に生きているひとりの人間がいるのだと述べています2)。現代日本人に縄文人のゲノムが伝わった割合は、地域的には差があるようですが、14~20%と推定されています3)。

文献
1)並木伸一郎 1998 「不思議発掘! 縄文超文明と日本ピラミッドの謎」 二見書房 
2)吉田敦彦 2007 「日本神話の源流」 講談社学術文庫
3)斎藤成也 2017 「日本人の源流」 河出書房新社