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温故知新(47)アトランティス 高天原 エデン タルシーン神殿 アルメンドレスのクロムレック ジェベル・イルード遺跡 岩宿遺跡 ヤンガードリアス

 アポロ・アテナ・ラインは、メルカトル図法では、アイルランドから始まり、モン・サン・ミシェルモンテ・サンタンジェロなど、聖ミカエルゆかりの土地を通り、ギリシャに至るとデルフィ(デルポイ)などアポロ神とアテナ神にちなんだ神殿を通る直線になります(図1)。Googleマップ(距離の測定)で、ナクソス島のアパリロス城(Apaliros Castle)とフランスのベルトーム砦(Bertheaume Fort)を結ぶラインを描くとデルフィやサクラ・ディ・サン・ミケーレ(Sacra of Saint Michele)の近くを通ります(図1)。ナクソス島の守護者はディオニュソスで、ナクソス島は出雲大社や鬼ノ城跡とレイラインでつながっています。このラインの近くには、キクラデス諸島北西部に位置するケオス島カルタイア(Karthaia)や、イタリアのブリンディジがあります(図1)。ブリンディジは、瀧原宮、出雲大神宮、豊受大神社とレイラインでつながっています

図1 アポロ・アテナ・ライン(地図上に記入した赤の直線)とスケリッグ・マイケル、聖ミカエルの山、モン・サン・ミシェル、サクラ・ディ・サン・ミケーレ(Sacra of Saint Michele)、モンテ・サンタンジェロ、ロードス島、ナクソス島のアパリロス城(Apaliros Castle)とフランスのベルトーム砦(Bertheaume Fort)を結ぶラインとカルタイア(Archaeological Site of Karthaia)、デルフィ、ブリンディジ、サクラ・ディ・サン・ミケーレ(Sacra of Saint Michele)

 徳川家康を祭神とする久能山東照宮日光東照宮は富士山を挟んで、直線上に配置していますが、徳川家康の遺訓にある「及ばざるは過ぎたるよりまされり」は、デルポイの神託が行なわれていたアポロン神殿の入口に刻まれている格言の「過剰の中の無」と似ています。「汝自身を知れ 」とは、自身の習慣・道徳・気質を自覚し、自分がどれだけ怒りを抑制できるかを把握する、といったようなことを指しているものとされるので、家康の遺訓の「堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え」などと似ているように思われます。聖徳太子の十七条の憲法の第一条に記されている「和をもって貴しとなす」とも類似しています。

 Googleマップで、アポロ・アテナ・ライン上にあるイタリアのアッシジサクラ・ディ・サン・ミケーレを結ぶラインを1辺とし、シチリア島のパレルモを対頂点とする三角形を描くと、アッシジとモロッコのマラケシュを結ぶラインは、サクラ・ディ・サン・ミケーレとパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。紀元前1000年頃に、ウンブリア人が、アッシジ周辺を含む、ティベレ川上流域からアドリア海にかけての地域の高台に要塞化した小さな集落を築き、紀元前450年頃に、エトルリア人がこれらの集落を徐々に奪っていったようです。このラインは、マラケシュがアポロ・アテナ・ラインやフェニキア人によって基礎が築かれたパレルモと関係があることを示していると推定されます。

図2 アポロ・アテナ・ライン(地図上に記入した赤の直線)とアッシジ、パレルモ、サクラ・ディ・サンミケーレを結ぶライン、アッシジとマラケシュを結ぶライン

 マラケシュは、ベルベル語で「神の国」を意味します。マラケシュとアンコール・ワットを結ぶラインの近くに、フェニキア人の植民都市の一つとして建設されたカルタゴの遺跡や、デルフィ(デルポイ)や、八咫烏と関係があると推定されるメネシスが崇拝されたイズミルがあります(図3)。

図3 マラケシュとアンコール・ワットを結ぶラインとカルタゴ遺跡、デルフィ(デルポイ)、イズミル

 マラケシュロドス島を結ぶライン上には、マルタ島のタルシーン神殿やアトランティスとも推定されているサントリーニ島の古代ティラ遺跡があります(図4)。タルシーン神殿は、紀元前3,600~2,500年に築かれた世界遺産指定の巨石神殿群にあり、バレッタにある国立考古学博物館には、渦巻き模様のある石材が展示されています。

図4 マラケシュとロドス島を結ぶラインとマルタ島のタルシーン神殿、サントリーニ島の古代ティラ遺跡

 ギョベクリ・テペとマラケシュを結ぶラインの近くには、チャタル・ヒュユクイカリア島、シラクーサがあります(図5)。2008年に、紀元前3世紀ごろに制作されたと推定されているアンティキティラ島の機械に関する詳細な論文が「ネイチャー」に掲載されましたが、研究者たちはシラクサ人によりデザインされたのかもしれないと示唆しています。

図5 ギョベクリ・テペとマラケシュを結ぶラインとチャタル・ヒュユク、イカリア島、シラクーサ

 ギョベクリ・テペとおのころ島神社を結ぶラインは、アララト山を通り、出雲大社の近くを通ります。おのころ島神社とマラケシュを結ぶラインは、元伊勢外宮 豊受大神社大山祇神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。おのころ島神社と元伊勢外宮 豊受大神社を結ぶラインの近くに住吉神社(魚住住吉神社)があり、元伊勢外宮 豊受大神社と大山祇神社を結ぶラインの近くに造山古墳、大山祇神社とおのころ島神社を結ぶラインの近くに田村神社、おのころ島神社とマラケシュ結ぶラインの近くにコウナイの石(頂上石)、千手観音堂、サムハラ神社 奥の宮笏賀神社(鳥取県東伯郡三朝町)があります(図6)。このラインは、マラケシュが古代の日本と関係があることを示していると推定されます。

図6 おのころ島神社と元伊勢外宮 豊受大神社を結ぶラインと住吉神社、元伊勢外宮 豊受大神社と大山祇神社を結ぶラインと造山古墳、大山祇神社とおのころ島神社を結ぶラインと田村神社、おのころ島神社とマラケシュ結ぶラインとコウナイの石(頂上石)、千手観音堂、サムハラ神社 奥の宮、笏賀神社

 ポルトガルには、卵型の岩のストーンサークル(アルメンドレスのクロムレック)があり、古代ティラ遺跡と結ぶラインの近くには、パレルモがあります(図7)。青銅器時代のアルメンドレスのクロムレックは、ストーンヘンジより2000年以上古く、ヨーロッパで最大で、もっとも古い先史時代のモニュメントの1つとされています。アルメンドレスのクロムレックの石の中には装飾的なマークや螺旋や円の刻まれた石があるようです。

図7 アルメンドレスのクロムレックと古代ティラ遺跡を結ぶラインとパレルモ

 パレルモとエルサレムを結ぶラインは、クレタ島のクノッソス宮殿古代都市ラトの近くを通ります(図8)。

図8 パレルモとエルサレムを結ぶラインとクレタ島のクノッソス宮殿、古代都市ラト

 イングランド南部にあるストーンヘンジ(図9)は、パレルモとハドソン湾を結ぶライン上にあります。スコットランド北西岸のルイス島にはカラニッシュの巨石遺跡があり、また、フランス南部のブルニケルの洞窟では、約17万6000年前のストーンサークルが見つかっています。マラケシュとカラニッシュを結ぶラインの近くにアルメンドレスのクロムレックがあり、カラニッシュとブルニケルを結ぶラインの近くにストーンヘンジがあります(図9)。

図9 マラケシュとカラニッシュを結ぶラインとアルメンドレスのクロムレック、カラニッシュとブルニケルを結ぶラインとストーンヘンジ

 マラケシュの近くに、31万5000年前のホモ・サピエンスと見られる人骨が見つかったジェベル・イルード遺跡(Grote Ighouds)があります。オークニー諸島のスカラ・ブレイとジェベル・イルード遺跡を結ぶラインは、聖ミカエルの山を通ります(図10)。

図10 スカラ・ブレイとジェベル・イルード遺跡(Grote Ighouds)を結ぶラインと聖ミカエルの山

 オークニー諸島にいる唯一のハタネズミはユーラシアハタネズミで、スコットランド本土やイングランドには見つからず、ハタネズミは泳げないので、南フランスやスペインから船乗りの持ち込んだ干し草などにまぎれ込んでいた可能性が高いと推定されています1)。

 ギョベクリ・テペとジェベル・イルード遺跡を結ぶラインはチャタル・ヒュユクやシラクーサの近くを通りますが、アルメンドレスのクロムレックとエルサレムを結ぶラインもシラクーサを通ります(図11)。

図11 ギョベクリ・テペとジェベル・イルード遺跡を結ぶラインとチャタル・ヒュユク、シラクーサ、アルメンドレスのクロムレックとエルサレムを結ぶライン

 アルメンドレスのクロムレックとエルサレムを結ぶラインの近くにあるネシェル・ラムラ遺跡(図12)では、約14万~12万年前のこれまで知られていなかった古代ヒト族集団の化石が発見されています。また、ミスリヤ洞窟(図12)では、19万4000~17万7000年前と思われるホモ・サピエンスの化石が発見されています。

図12 アルメンドレスのクロムレックとエルサレムを結ぶラインとネシェル・ラムラ(Nesher Ramla)遺跡、ミスリヤ洞窟(Misliya cave)

 モロッコは大西洋に面していて、研究者、化学者、コンピューター科学者のアントニオ・ザモラ氏が主張しているように、12,800年前にヤンガードリアス彗星の破片が北アメリカのミシガン州にあるサギノー湾に衝突したとすると、巨大な津波の被害を受けたと思われます。プラトンの『ティマイオス』および『クリティアス』には、ジブラルタル海峡のすぐ外側、大西洋に巨大なアトランティス島があったと記されています。ドイツのコンピューター専門家のミカエル・ヒュープナー氏は、プラトンが記述したアトランティスは、モロッコ中部のスース・マサ平原にあり、大津波で破壊されたとする説を主張しています(カラパイア)。アトランティスは約12,000年前の洪水で海に沈んだとされていますが、地震などにより海底が隆起したのかもしれません。アテネとサギノー湾を結ぶラインは、ストーンヘンジを通りますが、サギノー湾がレイラインの指標となっているのは、彗星の衝突による大災害を記録するためではないかと思われます。これらのレイラインを遺した人々は、12,800年前の彗星の衝突位置を特定できるレベルの知識があったと推定されることから、アンティキティラ島の機械を設計し、6,000年以上前の氷に覆われていない南極大陸の地図を最初に作成したのも、かれらかもしれません。

 プラトンが『クリティアス』の中で記述した、アトランティスに存在したという幻の金属「オリハルコン」は、銅系の合金と考えられています。アルメンドレスのクロムレックから東へ15kmの場所に、青銅器時代の銅山サン・ドミンゴスがあります1)。アルメンドレスのクロムレックは、銅山の位置を知るための目印だったのかもしれません。アトランティスが、スス・マサ・エコミュゼ国立公園の近くにあったとすると、銅山に近いアルメンドレスのクロムレックとレイラインでつながっていることと関係がありそうです。アルメンドレスのクロムレックの場所の緯度(北緯38度33分)では、ストーンヘンジのある緯度(北緯51度10分)と同様に、月が子午線を最高の高さで通過するときの位置がちょうど真上になることから、ストーンヘンジとアルメンドレスのクロムレックは、同じ天文の知識をもっていた人が造ったと考えられています1)。

 聖ミカエルの山とスス・マサ・エコミュゼ国立公園を結ぶラインは、アルメンドレスのクロムレックを通り、ジェベル・イルード遺跡の近くを通ります(図13)。ヒュープナー氏が見つけたスース・マサ平原の環状の構造は、マラケシュから南に160km、海から11kmの地点とされ、スス・マサ・エコミュゼ国立公園(海岸から2.7km)より8kmほど東にあると推定されます。これは、アトラス山脈を造ったプレートの衝突が関係しているかもしれません。

図13 聖ミカエルの山とスス・マサ・エコミュゼ国立公園を結ぶラインとアルメンドレスのクロムレック、ジェベル・イルード遺跡(Grote Ighouds)

 スケリッグ・マイケルとマラケシュを結ぶライン上に、ポルトガルのテージョ川河口にあるビラ・ノバ・デ・サン・ペドロがあります(図14)。ビラ・ノバ・デ・サン・ペドロは青銅器時代(紀元前2,500年頃)の要塞で、考古学者は同心円状の建築だったと推定しています1)。アトランティスと推定されているサントリーニ島に同心円状の港湾都市があったとすると、青銅器時代には、同心円状の港湾都市は複数あったと思われます。アテネの語源はギリシア語ではなく、アッティカ地方にギリシア語が入り込む以前に存在した言語に遡ると考えられています。アトランティスが大陸で、アテネを侵略したというのは創作と推定されます。ジェベル・イルード遺跡は、モン・サン・ミシェルとスス・マサ・エコミュゼ国立公園を結ぶラインの近くにあるので(図14)、ジェベル・イルード遺跡のホモ・サピエンスは、アトランティスと関係があるかもしれません。

図14 スケリッグ・マイケルとマラケシュを結ぶラインとビラ・ノバ・デ・サン・ペドロ、アルメンドレスのクロムレック、スス・マサ・エコミュゼ国立公園とモン・サン・ミシェルとを結ぶラインとジェベル・イルード遺跡(Grote Ighouds) 

 ギョベクリ・テペはジェベル・イルード遺跡とつながり(図11)、ジェベル・イルード遺跡はスース・マサ平原とつながっています(図14)。ギョベクリ・テペの近くに、タカマガハラ(高天原)の名前の由来ともいわれる古代都市ハッラーン(ハラン)があり、メソポタミア神話の「月の神」シンの祭儀の中心の街だったようです。オオナムヂ(大国主命)はシュメル神話のドゥムジという説があります(天の王朝)。シュメール語のmulu-edin(ドゥムジの別名)は「エデンの主」と訳され、エデンの女主人イナンナ(nin-edin)とは夫婦神です(高天原とエデンの園、天照大御神とシュメールの神ドゥムジ)。「エデンの園」のエデンは、シュメル語のエディンから来ているのではないかとする説が有力ともいわれ、「エディン」は、空き地、草原、原っぱという意味だそうです(天の王朝)。吉備の高天原がエデンだったとすると、孝元天皇(大国主命)の后と推定される倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)はイナンナと見なされたと推定されます。イナンナは、孝霊天皇(須佐之男命)が例えられたと推定される古代エジプトのメンフィスで信仰されたプタハの娘アスタルトと起源を同じくする女神です。

 スース・マサ平原が最初の「高天原」だったとすると、「高天原」が「海を臨むすばらしい平原」という意味と推定されることと適合します。ジェベル・イルード遺跡で見つかったホモ・サピエンスの後裔が、12,800年前のヤンガードリアス彗星の衝突以前にスース・マサ平原(高天原)にアトランティスを造り、その後、東に移動してフェニキア人、シュメール人、ミノア人になったのではないかと思われます。『アトランティス―大洪水前の世界』(1882年)を出版したイグネイシャス・ロヨーラ・ドネリーは、アトランティスの最初の植民地はおそらくエジプトであり、エジプト文明はアトランティス島の文明の再現であるとし、フェニキアのアルファベットはアトランティスのアルファベットから派生したものであると主張しています。下記のブログによると、有吉佐和子氏は、生前に古代の日本に一部のフェニキア人が渡来していたという説を発表されていたようです。

 古代フェニキア人は、地中海で採れる「アクキガイ」という貝の腺から採れた染料を使って紫色を出す染色法を用いていましたが、吉野ヶ里遺跡にある弥生中期から後期の墓から出土した染色布がこの貝を使った染色法に従ったものだということが判明しています。さらに、縄文時代にも同じ貝を使って紫色を出す染色法が行われていた痕跡があったことも報告されています。

出典:縄文時代に、古代フェニキアと同じ染色技術「貝紫」が!

 スス・マサ・エコミュゼ国立公園と聖ミカエルの山を結ぶライン上にアルメンドレスのクロムレックがあり、スケリッグ・マイケルとアルメンドレスのクロムレックを結ぶラインの延長線と神津島と権現岩(トトロ岩)を結ぶラインの延長線の交点付近には、クサール・ヌアイラがあります(図15、16、17)。

図15 スス・マサ・エコミュゼ国立公園と聖ミカエルの山を結ぶライン、スケリッグ・マイケルとアルメンドレスのクロムレックを結ぶラインの延長線、神津島と乗鞍大権現を結ぶラインの延長線と重なるライン
図16 クサール・ヌアイラと神津島を結ぶラインと権現岩(トトロ岩)、乗鞍大権現、三保の松原
図17 図15のラインとアイット=ベン=ハドゥの集落、クサール・ヌアイラと神津島を結ぶライン

 スカラ・ブレイ、ストーンヘンジ、スケリッグ・マイケルを頂点とする三角形を描くと、ストーンヘンジとスケリッグ・マイケルを結ぶラインは、スカラ・ブレイとクサール・ヌアイラを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図18)。

図18 スカラ・ブレイ、ストーンヘンジ、スケリッグ・マイケルを結ぶライン、スカラ・ブレイとクサール・ヌアイラを結ぶライン

 クサール・ヌアイラの近くには、ベルベル人によって建築されたとされるクサール(集落)で、ユネスコの世界遺産に登録されている「アイット=ベン=ハドゥ」の集落ザゴラがあります(図17)。この地は、隊商交易の中継地として栄え、建物の建設時期は不明ですが、マグレブ地方に伝わる先イスラム期の古代建築技法で築かれています。ベルベル人のY染色体はハプログループE1b1b系統が75-93%みられ、フェニキア人のY染色体DNAハプログループもE1b1b1a3とされています。しかし、フェニキアは、古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名で、フェニキア人は系統的には様々な民族と混交しました。先祖はセム系のアモリ人(アムル人)の一派が小アジアから北シリアに移住したことに始まるといわれていますが、メソポタミア各地でアムル系の王朝が成立したのは紀元前2千年紀に入ってからです。

 フェニキアの先住民とも推定されているフルリ人は、紀元前25世紀頃から記録に登場し、北メソポタミア、及びその東西の地域に居住していました。フルリ人は冶金について高い評価を得ていて、シュメール人はフルリ語の中から銅を意味する単語を借用したようです。E系統は約7.3万年前に東アフリカまたは西アジアで誕生したとされます。E系統に近く日本人とチベット人に比較的多いD系統は、出アフリカ間もない時期のDNAが、他のDNAからの変化を受けずにそのまま移動して来たと考えられています。

 クサール・ヌアイラとチャタル・ヒュユクを結ぶラインは、マルタ島のタルシーン神殿の近くを通ります(図19)。マルタ島の巨石神殿群からは、チャタル・ヒュユクから見つかった母神像に似た「ビーナス」や「眠る女性」が発見されていますが、棚畑遺跡から見つかった「縄文のビーナス」とも似ています。モロッコ南部にあるタンタンという町の北東ドラア川北岸の堆積物中からは、タンタンのビーナスという水晶でできた小立像が発見され、紀元前20万年から50万年前の間のものであると年代推定されていて、世界で最も古い人型をした彫刻の一つであると考えられています。シリアとイスラエルの間にあるゴラン高原で発見されたベレハットラムのビーナス2)は、紀元前23万年~70万年頃のものとされています。

図19 クサール・ヌアイラとチャタル・ヒュユクを結ぶラインとタルシーン神殿(マルタ島)、ギョベクリ・テペ、バールベック

 バールベックは、「ベッカー高原の主神」を意味し、ここにフェニキアの神ハダド(バアル)が祀られていた事に由来するといわれ、本来はフェニキア系の神々の聖地だったと考えられています。クサール・ヌアイラとスサを結ぶラインは、バールベックの近くを通ります(図20)。これらのことから、クサールを最初に造ったのは、マルタ島の巨石神殿群やバールベックの最初の神殿を造ったと推定される初期のフェニキア人と推定されます。

図20 クサール・ヌアイラとスサを結ぶラインとバールベック

 スペイン・グアレーニャにある古代遺跡「カサス・デル・トゥルヌエロ(Casas del Turunuelo)」から、最近、紀元前5〜4世紀の人間の顔を表現した5つのレリーフが発見され、アトランティスとの関係が注目されています(BIGLOBEニュース)。この古代遺跡は、この地で栄え2500年ほど前に歴史の表舞台から姿を消した古代文明「タルテッソス(Tartessos)」によって建設されたものであるといわれています。一説によるとタルテッソスは紀元前9世紀にもさかのぼり、西地中海の古ヒスパニック系とフェニキア系の両方のグループの子孫である可能性が高いとされています。グアレーニャは、聖ミカエルの山とクサール・ヌアイラを結ぶラインとアルメンドレスのクロムレックとオリンポス山を結ぶラインの交点の近くにあります(図21)。

図21 聖ミカエルの山とクサール・ヌアイラを結ぶライン、アルメンドレスのクロムレックとオリンポス山を結ぶラインとグアレーニャ

 さびない鉄柱として知られる「デリーの鉄柱」は、鉄柱に刻まれたサンスクリット語の碑文からグプタ朝(320年~550年頃)に建造されたものと推定され、もともとはインド南東部のウダヤギリ石窟群の前にあったようです3)。ウダヤギリは、スサとグヌン・パダンを結ぶライン上にあります(図22)。さびない鉄の技術は、スサから伝わったのかもしれません。志村史夫氏は「飛鳥の釘」との共通性を述べています3)。ウダヤギリは北緯23度31分にあり、夏至には太陽が鉄柱の真上に昇って影がなくなったということから、ストーンヘンジに似ており、暦として使われていたと推定しています3)。

図22 スサとグヌン・パダンを結ぶラインとムンバイ、ウダヤギリ

 アルメンドレスのクロムレックとグヌン・パダンを結ぶラインの近くに、アルテミス神殿スサムンバイがあり、グヌン・パダンと亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶラインの近くに沖縄市元伊勢籠神社があります(図23)。このラインは、シュメール語とタミル語と日本語の類似性と関係があるかもしれません。

図23 アルメンドレスのクロムレックとグヌン・パダンを結ぶラインとアルテミス神殿、スサ、ムンバイ、グヌン・パダンと亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶラインと沖縄市、元伊勢籠神社

 スペインのエル・シドロン洞窟で暮らしていたネアンデルタール人とされる古代人は、治療に植物を使っていた可能性があるとされ、スペイン北部のエル・ミロン洞窟では、真っ赤に塗られて埋葬された30代後半の女性が発見されています。アルメンドレスのクロムレックとモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くにエル・シドロン洞窟があり、モン・サン・ミシェルとクサール・ヌアイラを結ぶラインの近くにエル・ミロン洞窟があります(図24)。クサール・ヌアイラと、ハドソン湾ともつながりレイラインの指標となっている藻岩山を結ぶラインの近くにブルニケルの洞窟があります(図24、25)。

図24 アルメンドレスのクロムレックとモン・サン・ミシェルを結ぶラインとエル・シドロン洞窟、モン・サン・ミシェルとクサール・ヌアイラを結ぶラインとエル・ミロン、クサール・ヌアイラと藻岩山を結ぶラインとブルニケル
図25 図24のラインと藻岩山

 クサール・ヌアイラと富士山を結ぶラインの近くには、古くは岡姫神社と称し、宇迦能売神 軻具突智命を祀る鶴町神社(石川県鳳珠郡能登町)や棚畑遺跡があります(図26)。これは、豊受姫命が棚畑遺跡から見つかった「縄文のビーナス」が表していると推定されるアテナと関係があると推定されることと整合します。

図26 クサール・ヌアイラと富士山を結ぶライン(左)と鶴町神社、棚畑遺跡、富士山とマラケシュを結ぶライン(右)と真脇遺跡

 クサール・ヌアイラと武蔵一宮 氷川神社(さいたま市)を結ぶラインは、みなかみ三峯神社(群馬県利根郡みなかみ町)、赤城神社(三夜沢)(群馬県前橋市)、冠稲荷神社(群馬県太田市)、鴻神社(埼玉県鴻巣市)の近くを通ります(図27)。

図27 クサール・ヌアイラと氷川神社を結ぶラインとみなかみ三峯神社、赤城神社 (三夜沢)、冠稲荷神社、鴻神社

 高天原にあったと推定される瑜伽山(由加山)とクサール・ヌアイラを結ぶラインの近くには、樂樂福神社(鳥取県日野郡日南町)、須我神社(島根県雲南市)、正一位稲荷神社(松江市)があり、マラケシュと瑜伽山(由加山)を結ぶラインの近くには、須賀神社(松江市)、熊野大社(松江市)、石造物群(鳥取県日野郡日南町)などがあります(図28)。

図28 瑜伽山(由加山)とクサール・ヌアイラを結ぶラインと樂樂福神社、須我神社、正一位稲荷神社、マラケシュと瑜伽山(由加山)を結ぶラインと須賀神社、熊野大社、中野の石造物群

 クサール・ヌアイラと吉備津神社を結ぶラインの近くには、宗像三女神を祀る御津神社(島根県松江市)、平濱八幡宮・武内神社(松江市)、比婆山久米神社 奥の宮(安来市)があり、吉備津神社とマラケシュを結ぶラインの近くには、高岡神社(真庭市)、十二所神社(松江市)があります(図29)。

図29 クサール・ヌアイラと吉備津神社を結ぶラインと平濱八幡宮・武内神社、比婆山久米神社 奥の宮、吉備津神社とマラケシュを結ぶラインと高岡神社、十二所神社

 クサール・ヌアイラと熊山遺跡を結ぶラインの近くには、孝霊天皇(須佐之男命)と関係があると推定される妻木晩田遺跡や大山があり、熊山遺跡の近くにはフェニキア文字と関係があると推定される古代文字のある大内神社があります(図30)。アメリカの言語学者ジェームス・ホータック氏は、与那国島のサンニヌ台の近くの崖に彫りこまれている古代文字を見て「フェニキア文字」ではないかと指摘したそうです(日本古代史ミステリーコミュの沖縄海底ピラミッドとフェニキア人)。

図30 クサール・ヌアイラと熊山遺跡を結ぶライン(左)と妻木晩田遺跡、大山、熊山遺跡とマラケシュを結ぶライン(右)、大内神社

 クサール・ヌアイラと高天原伝説のある蒜山(ひるぜん)高原にある古くは天磐座、十二所権現社ともいわれた茅部神社(岡山県真庭市)を結ぶラインは、伯耆古代の丘公園(鳥取県米子市)や徳山神社(真庭市)の近くを通り、延長線上には宗形神社(赤磐市北佐古田)があります(図31)。

図31 クサール・ヌアイラと宗形神社(赤磐市北佐古田)を結ぶラインと伯耆古代の丘公園、徳山神社、茅部神社

 ピラミッドともいわれる久住山4)とクサール・ヌアイラを結ぶラインの近くには、宗像大社(辺津宮、中津宮、沖津宮)があります(図32)。このラインは、ペトログラフ(紀元前2,000年頃~紀元300年頃)が安置されている彦島八幡宮(山口県下関市)の近くにある彦島杉田岩刻画住吉神社(福岡市博多区)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図32)。宗像大社は、久住山とクサール・ヌアイラ、久住山とマラケシュを結ぶラインの間にあり、久住山とマラケシュを結ぶラインは、彦島杉田岩刻画と筑前國一之宮 筥崎宮(福岡県東区)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、久住山と筥崎宮を結ぶラインの近くには、宝満宮 竈門神社(福岡県太宰府市)があります(図32)。宗像大社の大宮司家を中核とする宗像氏の出自は、大国主神の六世孫、あるいは宗像三女神の七世孫の吾田片隅命に始まると伝わり、宗像氏は、ピラミッドやペトログラフと関係があると推定されます。紀元前2,000年頃には日本のピラミッドが造られていたと推定されているので、紀元前2,083年にアッカド市が占領、破壊されたころにシュメール人が渡来したと推定されることと整合します。

図32 久住山、住吉神社、彦島杉田岩刻画を結ぶライン、久住山とクサール・ヌアイラを結ぶライン(左)と宗像大社(辺津宮、中津宮、沖津宮)、久住山、筥崎宮、彦島杉田岩刻画を結ぶラインと宝満宮 竈門神社、久住山とマラケシュを結ぶライン(右)

 旧石器時代の岩宿遺跡(図33)は、赤城山の南東、渡良瀬川右岸地域の丘にあり、丘陵は「稲荷山」、「金比羅山」などと呼ばれます。約3万年前から2万年前の石器群や、クリ材の炭化物なども見つかっています。クサール・ヌアイラと旧石器時代の岩宿遺跡(群馬県みどり市)を結ぶラインの近くに、縄文時代中期の遺物が見つかっている荻ノ島環状集落オキの耳(谷川岳)があり、岩宿遺跡とマラケシュを結ぶラインの近くに、高天原(群馬県前橋市)や、国之常立神、大己貴神、少彦名神を祀る御嶽山神社(新潟県柏崎市)があります(図33)。また、アルメンドレスのクロムレックと岩宿遺跡を結ぶラインの近くに火焔型土器(国宝)が出土している笹山遺跡(新潟県十日町市)や赤城神社(群馬県前橋市)があります(図33)。赤城山の西麓の舌状台地上に広がる瀧沢遺跡は、旧石器・縄文早期から晩期・弥生・古墳・平安時代に及ぶ複合集落遺跡で、縄文時代の大規模な環状列石も見つかっています。

図33 クサール・ヌアイラと岩宿遺跡を結ぶライン(左)と荻ノ島環状集落、オキの耳(谷川岳)、岩宿遺跡とマラケシュを結ぶライン(中央)と高天原、御嶽山神社、アルメンドレスのクロムレックと岩宿遺跡を結ぶライン(右)と笹山遺跡、赤城神社

 霧島神宮サギノー湾を結ぶラインの近くに八大龍王水神、八大龍王 龍神の池、嚴島神社(広島県廿日市市)、八重山神社(島根県雲南市)、佐太神社(島根県松江市)があり、サギノー湾と玉比咩神社を結ぶラインの近くに八大龍王権現大野神社があります(図34)。

図34 霧島神宮とサギノー湾を結ぶラインと八大龍王水神、八大龍王 龍神の池、嚴島神社、八重山神社、佐太神社、サギノー湾と玉比咩神社を結ぶラインと八大龍王権現大野神社

 八大龍王宮のある秩父今宮神社とサギノー湾を結ぶラインは、世良田東照宮(群馬県太田市)、蓬莱山(栃木県佐野市)、地蔵岩(福島県岩瀬郡天栄村)、隠津島神社(福島県郡山市)、賀茂神社(宮城県仙台市)、姫宮神社(宮城県黒川郡大和町)、六神石神社(岩手県遠野市)、布引観音・鞭牛碑群(岩手県宮古市)の近くを通ります(図35)。

図35 秩父今宮神社とサギノー湾を結ぶラインと世良田東照宮、蓬莱山、地蔵岩、隠津島神社、賀茂神社、姫宮神社、六神石神社、布引観音・鞭牛碑群

 東京大学名誉教授の松井孝典氏は、『天体衝突 斉一説から激変説へ 地球、生命、文明史』で「彗星の出現と分裂、その破片の地球への衝突という現象は、神話や聖書などの古文書に記されている表現と奇妙に符合する。それはまた、仮想的動物である龍との関わりも指摘できる。」と述べています。八大龍王は、12,800年前にサギノー湾に衝突したヤンガードリアス彗星を表しているのかもしれません。

 伊吹山と須賀神社を結ぶレイラインは神武天皇社を通りますが、神武天皇社とサギノー湾を結ぶラインは、神武天皇陵、伊吹山九頭竜湖、佐渡金山の近くを通ります(図36)。

図36 神武天皇社とサギノー湾を結ぶラインと神武天皇陵、伊吹山、九頭竜湖、佐渡金山

 火焔型土器は、このラインが通る富山県でも確認されているので、火焔型土器が、彗星が衝突した時の洪水の様子を表しているとすると、九頭竜(八岐大蛇と推定)は八大龍王と同じくヤンガードリアス彗星に由来するのかもしれません。1993年に、トルーマン夫妻は、紀元前7,600年に巨大彗星が衝突し、巨大な津波を引き起こしたという研究を発表していますが、この彗星は7つに分裂したといわれ、外伝「エノク書」には、燃える山のような七つの星が地上に落ちたことが書かれているようです2)。科学者のアレン・ウェストとリチャード・ファイアストーンによれば、12,800年前のヤンガードリアス期の初めに、キロメートル級の彗星の破片が8個も北米大陸の氷冠に衝突した可能性があるとしています5)。九頭竜や八大龍王は、分裂したヤンガードリアス彗星を表しているのかもしれません。彗星の衝突後、大規模な火災が発生し、ヤンガードリアス期初頭には世界中で様々な動物種が絶滅したといわれています5)。

 クサール・ヌアイラと幣立神宮を結ぶラインの近くには、主祭神として豊玉姫命、配祀神として彦火火出見命、宗像神、道主貴神、鵜茅草葺不合命を祀る海神神社(長崎県対馬市)や八龍神社(福岡県八女市)があります(図37)。「八龍」が八大龍王で、ヤンガードリアス彗星を表しているとするとアトランティスとつながります。アトランティスを造ったのは、海神ポセイドンといわれますが、須佐之男命も海神と推定されるのでポセイドンとみなされたのかもしれません。

図37 クサール・ヌアイラと幣立神宮を結ぶライン(左)と海神神社、八龍神社、幣立神宮とマラケシュを結ぶライン(右)

 カスピ海沿岸にあるゴブスタンという遺跡には、旧石器時代から新石器時代にかけて人々が住んでいたという岩窟があります。岩絵には、漕ぎ手が十数人もいるような船が描かれていて、船の先には明らかに太陽と見える印があり、田中英道氏は、そのころ生きていた人々は、太陽の昇る東へと歩いて向かっただけではなく、船も使っていたと推定しています6)。ジェベル・イルード遺跡とゴブスタン国立保護区を結ぶラインはオリンポス山を通ります(図38)。

図38 ジェベル・イルード遺跡とゴブスタン国立保護区を結ぶラインとオリンポス山

 ジェベル・イルード遺跡(Grote Ighouds)と国生みの聖地であるおのころ島神社を結ぶラインは、ブルニケルの洞窟や、スカラ・ブレイやオリンポス山とレイラインでつながっているアインホルンヘーレの洞窟の近くを通ります(図39)。これらの遺跡の古代人は、ジェベル・イルード遺跡のホモ・サピエンスや縄文人と関係があると推定されます。

図39 ジェベル・イルード遺跡(Grote Ighouds)とおのころ島神社を結ぶラインとプルニケル、アインホルンヘーレ

 ジェベル・イルード遺跡と棚畑遺跡を結ぶラインは、クロマニョン人の骨が見つかったフランスのヴェゼール渓谷の洞窟近くを通り、真脇遺跡の近くを通ります(図40)。これは、ジェベル・イルード遺跡のホモ・サピエンスとクロマニョン人と縄文人の関係を示しているのかもしれません。クロマニョン人のヨーロッパ進出の第一波のY染色体ハプログループはC1a2で、犬を家畜としていたことは縄文人と似ています。日本列島ではおおむね5%の頻度で見られる縄文系のC1a1とC1a2の最も近い共通祖先は、およそ4、5万年前にさかのぼると推定され、日本列島に現存するC1a1の拡散は約12,000年前と推定されています。ジェベル・イルード遺跡のホモ・サピエンスはクロマニョン人や縄文人の祖先だったと思われます。

図40 ジェベル・イルード遺跡と棚畑遺跡を結ぶラインとヴェゼール渓谷の洞窟、真脇遺跡

 阿波地方(現在の徳島県)から渡ってきた忌部氏(斎部氏)による創建といわれる安房神社(千葉県館山市)と三保松原と鹿島神宮をラインで結び三角形を描き、安房神社とジェベル・イルード遺跡を結ぶラインを引くと、三保松原と鹿島神宮を結ぶラインは、安房神社とジェベル・イルード遺跡を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図41)。三保松原と鹿島神宮を結ぶラインの近くには九頭龍神社 本宮箱根山菊田神社(習志野市)があり、安房神社とマラケシュを結ぶラインの近くには、五所神社(鎌倉市)、縄文時代中期から晩期にかけての集落跡・祭祀遺跡である田端環状積石遺構武甲山があります(図41)。ジェベル・イルード遺跡のホモ・サピエンスは、忌部氏と関係があると推定され、ジェベル・イルード遺跡のホモ・サピエンスが縄文人の祖先と推定されることと整合します。

図41 安房神社と鹿島神宮と三保松原を結ぶラインと九頭龍神社 本宮、箱根山、菊田神社、安房神社とジェベル・イルード遺跡を結ぶラインと五所神社、田端環状積石遺構、武甲山

文献
1)ギャヴィン・メンジーズ、松本剛史(訳) 2024 「失われたアトランティス」 扶桑社
2)コリン・ウィルソン 松田和也(訳) 2006 「アトランティスの暗号」 学習研究社
3)志村史夫 2023 「古代世界の超技術」 改訂新版 講談社
4)並木伸一郎 1998 「不思議発掘! 縄文超文明と日本ピラミッドの謎」 二見書房
5)グラハム・ハンコック 大地舜・榊原美奈子/訳 2020 「人類前史(下)失われた文明の鍵はアメリカ大陸にあった」 双葉社
6)田中英道 2022 「日本国史・上 世界最古の国の新しい物語」 育鵬社