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温故知新(23)桓武天皇 嵯峨天皇 清和天皇 醍醐天皇 白河天皇 源氏 平氏 藤原氏

 賀茂氏の氏神を祀る賀茂御祖神社(下鴨神社)が鎮座する賀茂川と高野川の合流する辺り(図1)は、古代は出雲郷と呼ばれ、賀茂氏は旧出雲王家から分家し、大和で豪族となった後裔で、雄略期に秦氏と共に移住したようです。上賀茂神社や下鴨神社の神話で孝元天皇(宇摩志麻遅命と推定)が「丹塗矢」で表されているのは、賀茂氏と姻戚関係にあった秦氏が物部氏と対立していたためと思われます。志野敏夫氏は、御霊神社の祭神の「吉備大臣」とか「吉備聖霊」は、吉備真備ではなく、『梁塵秘抄』に出てくる吉備津神社に祀られる「艮御前(うしとらみさき)神」(温羅)としています。

図1 賀茂御祖神社(下鴨神社)と御霊神社

 御霊神社の祭神の菅原道真は、群馬県桐生市の桐生天満宮に、先祖の天穂日命と共に祀られています。菅原氏の前身は、天穂日命の子孫で、野見宿禰を家祖とする土師氏です。桐生天満宮とオリンポス山を結ぶラインには赤城山にある赤城神社があり、近くに元島名将軍塚古墳があります。上毛野氏は、氏神として豊城入彦命を赤城神社に祀ったといわれています。また、ほぼ同緯度には、壬生車塚古墳や、酒列磯前神社があります(図2)。

図2 桐生天満宮とオリンポス山を結ぶラインと元島名将軍塚古墳、壬生車塚古墳、酒列磯前神社

 京都の愛宕山は修験者の聖地で、701年頃に愛宕神社が建立され、それら修験者が全国に展開して愛宕信仰を広めたと伝えられます。愛宕神社総本宮は、京都市右京区太秦にある木嶋坐天照御魂神社とアララト山を結ぶライン上にあります(図3)。木嶋坐天照御魂神社の社名は「木嶋(地名)に鎮座する天照御魂神の社」という意味で、天照御魂神(あまてるみむすびのかみ あまてるみたまのかみ)を祀った神社とされます。天照御魂神は、天照大神(皇祖神)とは別の神格と考えられていて、朝鮮半島系の太陽神(日の御子)とする説もあるようです。木嶋坐天照御魂神社のある太秦は、秦氏の本拠地なので、秦氏はアララト山を聖地としていたと推定されます。

図3 木嶋坐天照御魂神社とアララト山を結ぶラインと愛宕神社総本宮

 尾張国司は壬申の乱では大海人皇子に味方しています。尾張国司は葛城から尾張に移った尾張氏と推定され、秦氏は、葛城氏の本拠地である葛城に住んでいたので、尾張氏は秦氏と関係があったと思われます。葛城山は修験道のはじまりの地で「葛城二十八宿」があります。下鴨神社と伏見稲荷大社を結ぶラインは桓武天皇陵の近くを通ります(図4)。伏見稲荷大社は、賀茂県主族と早くから姻戚関係のあった弓月君を祖とする帰化氏族の秦氏が、和銅4年(711年)稲荷山(伊奈利山)三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮したことに始まるとされます。

図4 下鴨神社と伏見稲荷大社を結ぶラインと桓武天皇陵

 「平城京」と「平安京」の間に「長岡京」がありましたが、長岡京ができたのは784年で、わずか10年で都を平安京に移しています。長岡京へ遷都したのは、第50代桓武天皇(在位:781年-806年)で、渡来人の秦氏の本拠地が桂川周辺であったということも大きな理由と推定されています。平安京への遷都は、遷都事業の中心的役割だった桓武天皇の側近、藤原種継が暗殺され、関与が疑われた桓武天皇の弟である早良親王の死後、皇族の相次ぐ死や疫病、洪水などの厄災が都を襲ったためとされてます。藤原種継は、秦氏の秦朝元の外孫にあたるようです1)。

 桓武天皇の生母は百済系渡来人氏族とされる和氏(やまとうじ)の出身である高野新笠で、和氏は武寧王(在位:501年-523年)の子孫を称したようです。武寧王が、北魏の孝文帝の長子の元恂であるとすると、高野新笠は騎馬民族(鮮卑やスキタイ)のDNAを受け継いでいたことになります。桓武天皇は、801年の3度目の蝦夷征討で坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送っていますが、田村麻呂の生まれた「坂上忌寸」は、東漢氏と同族を称しています。足利氏との血縁から関東管領を世襲した上杉氏と婚姻を繰り返した長尾氏も東漢氏の後裔のようです。桓武天皇を祖とする桓武平氏の支流には、平清盛の平家や、源氏側(鎌倉幕府)についた坂東平氏などがあります。坂東平氏には、平将門や鎌倉幕府の執権を世襲した北条氏などがあります。

 『新撰姓氏録』は、もともとは桓武天皇による発議だったようですが、第52代嵯峨天皇(在位:809年-823年)によって編纂されました。嵯峨天皇は、嵯峨源氏の祖で、皇后は、橘奈良麻呂の死後に生まれた息子・橘清友の娘・嘉智子で、第54代仁明天皇を生んでいます。空海(弘法大師)は、816年に嵯峨天皇より高野山の地を賜り、総本山金剛峯寺を開創しています。空海・嵯峨天皇と共に「三筆」と称される橘逸勢(たちばなのはやなり)は、延暦23年(804年)に最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡っています。渡辺姓は、嵯峨天皇の皇子で源融(「源氏物語」の主人公である光源氏のモデルのひとり)が、摂津国西成郡渡辺に住み移り、渡辺を名乗ったのが始まりとされています。源頼朝や足利尊氏などの清和源氏の祖は、第56代清和天皇(在位:858年ー876年)です。「源氏」という姓は、『魏書』の中で、太武帝が源賀に対して告げた「卿、朕と源を同じくす。事に因って姓を分ち、今、源氏となすべし」という言葉に由来すると考えられています。

 延喜式の出雲井上神社の論社である京都の御霊神社(図1)は、桓武天皇の勅願で、祭神を八所御霊といい、橘逸勢他が祀られています。橘逸勢は、842年に、謀反を企てているという密告により逮捕され、拷問を受けたのち伊豆へ配流される途中で亡くなっています(承和の変)。これは、藤原良房が、娘の生んだ道康親王を皇太子にするため陰謀を企てたのではないかともいわれています。この後、道康親王は第55代文徳天皇(もんとくてんのう)となり、良房は摂政となり藤原北家の隆盛の基礎を築いてます。

 第60代醍醐天皇(母は藤原高藤藤原北家冬嗣の孫)の女藤原胤子)は、923年に、左遷後に亡くなった菅原道真を右大臣に復し正二位を授与していますが、同じ年に、修験者の順円は、島根県鹿足郡吉賀町にある愛宕神社に、軻遇突智(かぐつち)神・伊邪那岐(いざなぎ)神を祀っています。 『日本書紀』にもある「軻遇突智」の「」は「物事がうまく進まないさま」をいい、「伊邪那岐」の「」は「邪馬台国」の「邪」と同じで「よこしま」という意味なので、『日本書紀』にある「素戔嗚尊」の「」の「そこなう」という意味と同様に、呪術的意味があるのかもしれません。「素戔嗚尊」とは逆に、「伊邪那岐」については『古事記』に使われ、『日本書紀』では「伊弉諾」が使われていますが、多氏の太安万侶が「伊邪那岐」の漢字を用いたとは考えられないので、『古事記』にも後世に改ざんがあったと推定されます。

 宮崎県西臼杵郡高千穂町の高千穂神社(たかちほじんじゃ)は、主祭神は一之御殿の高千穂皇神(たかちほすめがみ)と二之御殿の十社大明神を祀っています。正和2年(1313年)成立の『八幡宇佐宮御託宣集』巻2に、「高知尾(明神)」は神武天皇の御子である神八井耳命の別名で、「阿蘇(大明神)」の兄神であるとの異伝もあります。肥後国菊池郡(熊本県菊池市)の在地領主だった菊池氏は、藤原姓(藤原北家)を自称した菊池則隆を祖とし、1070年ごろ菊池周辺に土着したとされています。第72代白河天皇(在位:1073年-1087年)の母は藤原氏閑院流藤原北家支流)藤原公成の娘の藤原茂子で、中宮は藤原北家の藤原師実の養女・藤原賢子でした。高千穂神社とアララト山を結ぶラインの近くに鞠智城跡や菊池神社があります(図5)。高千穂神社では、鹿島神宮に伝わる「要石」は社殿造営に際して当神社より贈られたものと伝えていることなどから、高千穂神社は、中臣氏や藤原氏(北家)と関係があったと推定されます(図5)。

図5 高千穂神社とアララト山を結ぶラインと鞠智城、菊池神社

文献
1)瀧音能之(監修) 2023 「日本の古代豪族 発掘・研究最前線」 TJムック 宝島社