記事一覧
18/9/30 休止のお知らせ
本年4月1日より「1年間、毎日分書いて更新します」と宣言して、自主的にはじめたこのnote。9月末までの分で更新が止まっていたのですが、よくよく考えた結果、志半ばではありますが半年分をもって自主的に休止させていただくことにしました。
理由としては、半年以上あると色々変化があり、書き物にあまりエネルギーを注げない現状になっていること。また、別の課題に自分の時間を充てたい思いも強くなっていきまし
18/9/29 仏教儀礼を追いかけて
朝のお勤めとお掃除の会「Temple Morning」。あいにくの雨の中でしたが、すっかりおなじみのメンバーで9月もお勤めをする。演劇公演前の應典院ロビーを皆でお掃除。
最後のお茶会では、仏教儀礼の面白さについての話題に。私もじぶんでは法要を普段行っているとはいえ、実は他宗派の法要にほとんど出る機会がないし、そういえば浄土宗ですら色んなお寺に参拝できているわけではない。参加者の話を聞いている
18/9/28 圧倒的さについて
とある演奏会でたまたま隣り合わせた人に、突然話しかけられる。曰く、いや〜、彼の演奏はいつも良いところまでは固めてくるんだけど、どこか圧倒的さに欠けるのよね、という評価らしい。
しかし、圧倒的さって人間の及ぶ領域ではないように思います。表現における技巧の上手下手は実は圧倒的さにはほとんど関係ないし、ものすごい下手くそな表現に心の奥底をガッと掴まれることだってある。たくさんの観客の側も決して一枚
18/9/27 好き嫌いという妄想
好きと嫌いと身の毛のよだつことは、自身から生じる。諸々の妄想は自身から生じて心を投げ打つ。「スッタニパータ」より
好き嫌いとは妄想であると、仏教ははっきり断言します。
いや、私だってどうしたって嫌いなものはありますよ。たとえば、ちくわとか。私はちくわが嫌いですが、だからって世の中からちくわは消えて無くなるべきだ、他人もちくわを決して食べてはいけないというのは飛躍しすぎですよね。私はちくわは
18/9/25-26 「おてら終活祭」を終えて
應典院にて「おてら終活祭」を開催、延べ570名もの方にご来山いただきました。本当にありがとうございました。(こちらにレポートもありますので、ぜひご一読ください。https://www.outenin.com/article/article-12380/)
再建から20年以上が経ち、ある意味でははじめて、應典院なりの仏教との関わり方を見つけた瞬間だったのではないかと思いました。これまでも個別の
18/9/23-24 彼岸法要にて
大蓮寺にて秋季彼岸法要、翌日はお隣の浄國寺さんの彼岸法要に出勤。まだまだ経験の足りない未熟者ですが、出させていただくからには一生懸命させていただきます。
これだけ多くのご家族それぞれに別の人生があるにも関わらず、お寺という場で僧侶があいだに立つことで、極楽浄土を通じた大切な人とのつながりを確認できる。それってすごいことだなあと思いますし、「お檀家さんのために」というだけでなく、実は僧侶である
18/9/22 過去と未来
應典院コミュニティシネマvol.22「その日、恋は落ちてきた」のトークに登壇。二年前に原案監修させていただいた舞台の映画版ということで出演もさせてもらい、う〜んまさかこんな展開になるとは予想できてなかったなと、スクリーンの中の自分を見て不思議な感覚になりました。もちろん演劇と映画とは全く別物ですが、武信監督の映画そのものは舞台版の精神を引き継いでくださっている作品であり、客観的なストイックさを感
もっとみる18/9/21 「自業自得」の真意
ブッダの教えを突き詰めていくと、私たちがサッと思い浮かべる道徳的な善悪とか正義とかに絶対の価値はありません。善悪や正義はあくまで「作りもの」であって、時代ごとにコロコロ変わったりもしますし(戦争中は敵国に対する殺人行為が善になります)、正義を支持することで他人を悪質に攻撃することも可能です。
とはいえ、そうした危険性には熟知しつつ、だからと言って何をやってもいい訳ではありませんね。初期仏教に
18/9/20 自律した生き方とは何か
怒らないことによって怒りに打ち勝て。「ダンマパダ(法句経)」
「耳が痛い…」と評判のブッダのことばシリーズ、第二弾です。
このことば、変わった言い方だと感じられた方もいらっしゃるでしょうが、仏教では「怒り」を筆頭として、自分に湧いて出てくる感情を「自分とは別のもの」だと捉えています(そればかりでなく、私たちが普段使っている意味での「自分」という存在も認めないのですが)。中でも怒りは、激情に
18/9/19 他人よりも自分
他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。「ダンマパダ(法句経)」
瞑想をはじめたり法要に出てみたり仏教の本を読んでみるのも良いですが、何を差し置いてもまずはここから!シリーズ。改めてブッダのことばを読みなおしているので、これからちょくちょく取り上げます。一番の基本であり、だからこそ難しくもありますが。
私たちの社会では「
18/9/18 勉強=瞑想の可能性
ワールポラ・ラーフラ『ブッダが説いたこと』を読む。仏教入門として名高い本書ですが、著者が「仏教について勉強し、哲学的に議論を交わし、テーマを深く検討すること」も一種の瞑想になりえる、と明言されているのが特に印象的でした。
瞑想というと「頭でっかち」の反対だ!と思ってしまうので、あたかも勉強や議論とは相容れないように感じますが、勉強や議論それ自体に心底集中し、また気づきと変容の姿勢を担保できる
18/9/17 おてら「宗活」塾、はじめます。
12月3日(月)から、おてら「宗活」塾という企画をはじめます。應典院・終活プロジェクトの一環として、仏教の立場から生きること・死ぬことの「宗=おおもと、根本」を学んでいただく場になるよう、「おてら終活カフェ」とともに励みます。https://www.outenin.com/article/article-12408/
というと何か大層に聞こえますが、決して「仏教の考え方が正しいから実践しまし
18/9/16 踊り念仏、稀有なドラマ
New踊り念仏探究会、時宗真光寺での法要当日。兵庫駅ではじめて降りる。まず、二祖真教上人の遠忌ということで本堂にて法話があった後、法要がはじまりました。お坊さんの衣にしろお経の節にしろ、浄土宗のかたちに忠実な印象です。同唱十念も一緒だけれど、ただし十念の唱え方がけっこう違いました。
その後は本堂の外に出て、いよいよ御廟所での踊り念仏に加わりました。今年から一般の参加をはじめて受け入れることに
18/9/15 慈悲と客観性
じぶんがよく見られたいとか、そういう思惑を捨てて、ひたすら他者を幸せにするべく奉仕する人を見かける。これはなかなか真似できることではないし、結果的に多くの人の支持を集めているのも分かるかな。ただ、他者を見つめる彼の熱を帯びた眼をはたから見ていると、ちょっと危なかっしいと感じるのも事実です。
仏教でいう「慈悲」はキリスト教の「博愛」と比較されたりもしますが、少なくとも「慈悲」は自らを客観的に見
18/9/14 問いつづける道
人が聞くと「波乱万丈な人生」を受け止めつつ、なんとか踏ん張ってみようとされている方と話す。明確な答えは出ないかもしれませんが、その人なりに問い続けることを止めようとしない姿勢は素敵だと思いました。
先月、あるお坊さんにインタビューで伺ったことなのですが、安住できる答えがどこかにないかと必死に探しつづけるのではなく、じぶんにとって切実な問題を地道に問いつづけ、変わりつづける姿勢を身につければ、
18/9/13 神仏という「外部」
友人の櫨畑敦子さんの著作『ふつうの非婚出産』出版記念で、櫨畑さんと釈徹宗先生のトークイベント@スタンダードブックストアに。宗教から家族まで、釈先生の博識から色んな話題が引き出される楽しい時間でした。
私も20代半ばくらいまで、神とか仏と関わりを持たない方が自分らしく生きられるはずだと、宗教を信じることは自己を放棄することだと思っていたんですけど、お坊さんになってみて実感するのはむしろ逆で、仏