見出し画像

25歳になったので人生振り返ろう〜宗教編〜#3

続きです。


上京を期にやっと本当の意味で宗教から離れられることができました。
高校に上がると同時に16歳から入信(団体に加入すること)ができたため、母の望むままに名前を書き、地元にある団体が所有している会館で入信用の勤行も唱えました。
なので籍は置いたままなのですが、自分の幸不幸を宗教を通じて考えなければいけないという状態から抜け出せた時は、ようやく普通の人になれたと思いました。

自分に降りかかる幸福も、不幸も、全て信仰をしているから、もしくはしていないから起こること、なんて、そんなことはないのです。

幸福も不幸も、自分のものにしたかった。


希望と宗教


ビデオ放映で毎月のように聞かされる夢のような話。もちろん唱えたから億万長者になれた、などという話は聞きませんが、余命宣告をされてから真摯に唱えたらガン細胞が無くなった、お医者さんも驚いて宗教の話を聞きにきた、など。

子供の頃に飼い犬が交通事故に遭った時と、祖母が車に轢かれた時、あれほど熱心に唱えたことはありませんでした。どちらも大事には至らず、飼い犬は老衰で逝去しました。祖母はまだ存命です。

もしかしたら、唱えたから無事だったのではないか。この先何か大きな不幸があっても、信じて唱えれば叶うのではないか。そんな期待はまだ胸の底にあります。

”そうだったらいいなぁ” と、たまに思います。
勤行をして信心をして、それでみんなが幸福になって、平和な世界になる。
近い将来そうなるんだよ、と母は私によく言いました。だったら、そうなったら教えてくれ、そしたら信じるから、その度にそう思ってました。小さな私ですらそう思ったのです、全国民がボランティアをしないように、世間は世間に対して他人事です。全員が同じものを信じるなんて、できるのでしょうか。
できたらいいな、そうなったら幸せだな、そのために私は何もしないけど。

現金すぎて嫌になりますね、でもこれが人間で、これが私でした。


母親と宗教#2


上京してからというものの、短大卒で入社した仕事も忙しく、母からの連絡は基本無視、数日後に必要であれば返信をするような状態で、我ながら親不孝だなと思いました。
ただ、電話を受ければ必ず、「ちゃんと勤行してる?」と聞かれるのは避けられません。

「まぁ」 「うん」 「大丈夫」 これらを巧みに使い分け、してもいないことをしたと報告することは、例にもれず良心の呵責を生む行為でした。

そのため連絡自体を取りたいとは思えず、たまには電話に出るか、と出た先で母から話題に上げられるのは、宗教や、父の病気、祖母の認知症の話、母の不安の吐き出し口が私にしかないのも、正直なところストレスでした。

私は一人っ子です。母は晩婚で父は再婚、再婚というのは戸籍謄本を取り寄せたときに知ったので、父の口からは聞いていません。母は現在58歳くらいだと思うので、大事に育てられたと思います。

そんな母に対しても、最近あった大変な話をされると、慰めるどころか心の中では

「宗教やってた結果がそれ?」
「やってた意味あった?」

と一番傷付けるであろう言葉が頭をよぎりました。その度に、私は母を恨んでいるのだろうかと思いました。

嫌いではないけど分かり合えない存在。それが私にとっての親でした。


愛情と宗教


しかし、そんな確執も少しずつですが雪解けを迎えます。

今年の2月頃帰省した際に、もう家に帰るたび宗教のことで悩むのは嫌だと思い、母親になんの活動もしていないことを伝えました。
「そんなことわかってたよ」となんてことないように扱われ、喉にひっかかった骨がやっと取れた気がしました。

その後に母は、この間父に
「娘と一緒に居られない時間が多かったけど、全部家族のためにしてきたことだから、後悔はしてない」と話したと言いました。

私は、このとき初めて、母が人間に思えました。

家族のため、愛する人のためという、誰でも持っている愛情を持っている人。
ただその表し方が、少しだけ人とは違った人。

悪も正義、正義も悪。人には人の正義があり、それをどう表すかに正解はありません。母の場合の最大限の愛の表し方は、宗教だった。それだけです。

だけど、家をあけて私に寂しい思いをさせるくらいなら、一緒にテレビを見て過ごしてほしかった。最近読んだ面白い本を教えて欲しかった。好きな音楽を、映画を、教えて欲しかった。
何が好きで、どんな趣味があって、父とはどうやって出会ったのか。どんな人間なのか、私はまだ知りません。
もちろん普通の家庭でも両親のことをよく知る子供は少ないかもしれません。知らなかったことを宗教のせいにするわけではないのですが、もしも普通の家庭だったら違っていたかもしれないと考えてしまいます。

これをきっかけに確執はとれ、今では少しプライベートな話もするようになりました。根本は分かり合えないかもしれないけど、親と子として話せているのではないでしょうか。

いまでは家が宗教をしていることも、私にとっては他人事です。親しい人に話すことも抵抗は無くなってきました。
上京後カミングアウトしたときに嫌悪感を表さず、そうなんだと、それこそ他人事として扱ってくれた何人かの友人には、本当に出会えて良かったと思います。

そんなこと他人にすればどうでもいいことだったんだと、お前の悩みはちっぽけだぞと、思春期の私に伝えたい。

信じられなくたって、信じてたって、どっちでもいい。そんなことは大した問題じゃない。

もっと変な人もいるし、もっと嫌なこともある。
もっと人生は忙しい。


まとめ


人生振り返ろう〜宗教編〜はこれで終わりにしたいと思います。
共感の声もいただいてありがとうございます。
同じような宗教2世の方がこれを読んで、自分だけじゃないんだと心が楽になってくれていたら嬉しいです。

何も難しいことはないと思います。親と子でも、違うものを信じてもいい。信じるものなんてなくたっていい。宗教に限らず、人間と人間なんだから違って当然なんです。
そして同じく、違うものを非難しなくてもいい。事件性がないのであれば、そういう考えもあるよね、世界は広いから、で終わらせてください。

仏教の教えも、聖書の言葉も、どちらも興味深く思いますし、それらは私たちの生活に何百、何千年も前から溶け込んでいます。様々な国で、様々な思想が生まれ、それは派生を繰り返し、根強く幅広く今に至るまで誰かが守っているのです。
私は信者にはなれませんでしたが、宗教という世界を知っていることで、人よりも他人に寛容になれたと今では思います。

まとめのまとめ

  • 親も人間

  • 宗教は人によっては救い

  • 悪い団体ももちろんあるだろうから気をつけてね

  • 自由に生きよう


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?