見出し画像

#22 白い絵のむずかしさ。

絵と文というのは、まったく異なるジャンルのものだと、数ヶ月前までは思っていました。絵を描く場合、絵筆をうごかしながら、思考にじゃまされずに考えるという、独特のプロセスをたどることができるから。反対に文章を書く場合は、かならず書き手の思考を使わなくてはなりません。自分の常識から自由になりたくても、なりきれない。いつもの論理に足元をひっぱられて、書き進めたいことがらの自由度が下がってしまう、そう思っていたのです。ところがそうでもないのかもしれないと最近は思えるようになってきました。

絵画教室に通っているミドリーと、ときどき展覧会にでかけます。
「絵で白をあらわすのって、すごくむずかしいんだよ」
そんなこと、考えたこともありませんでした。白い絵の具を紙の上にぬれば、白い部分ができあがるのではないかと、素人のわたしは思っていたのですが、どうやらそうではないらしいのです。白のもつ奥ゆきや深み、あるいは白に透けて見える向こう側までを描こうと思うなら、いくつもの色を重ねて表現しなければならないそうなのです。
「白いキャンバスって、そのまま使うんじゃないんだよ。一度、ほかの色をぬって、乾かして、それから描きはじめるの」
そのようなひと手間があることも、初めて知ったわたしには新鮮なおどろきでした。

「もし、そうだとするならば…」
文章を書く時も、もしかしたら同じなのかもしれない。文字によって形づくられていくものは、紙の表面にあらわれる言葉であるとしても、その言葉の奥にある体験や感情、まだ言葉にならない思いなどが、言葉の奥行きをささえているというわけです。同じ言葉をつかっても、言葉が発する匂いというか、ニュアンスみたいなものは、それぞれの文章の中でちがっています。そのちがいは、つづられていく文章の中における言葉と言葉のからみ合いによるものもあるでしょうが、ほんとうはもっと、言葉として形にならないところにあるように思うのです。

また、お話を書くときに、話の展開や登場人物たちの心のうごきを、追っていきますが、書き手の感情が入りすぎると、その色は濃くなりすぎてしまうのではないでしょうか。あるいはまた、お話から距離をとりすぎ、客観的な説明になってしまうと、色が薄くなったように感じられてしまうのではないでしょうか。目の前の文章と、ほどよい距離をおいて、お話の流れをからだで感じ取りながら書き進めることができるとき、そこに白い部分がうまれてくるのかもしれない。白い部分は、読み手が自由に想像力をふくらませることができる部分になるのかもしれない。

文章にもさまざまな形がありますが、それがエッセイであれ、小説であれ、子ども向けの童話であれ、とても印象の強い作品よりも、どこかはかなげな、頼りない部分があるものに、わたし自身は魅かれることが多いです。くっきり、はっきりとした言葉は、読み手の想像力の自由な動きを妨げてしまうこともあるように感じるからです。といいつつも、自分の文章はゴツゴツしていますし、絵を描くときには、黒いペンでしっかりと輪郭を描きこんでしまいます。淡い水彩画のような文章に憧れること自体、ないものねだりという側面もあるのかもしれません。

あまりむずかしく考えるよりも、肩の力をぬいて、深呼吸して、楽な気持ちで書き続けてみるというのが、今のわたしの課題ではあるのですが、いつか自分の文章の中に、「白の部分」があらわれてくることも、むねの中に秘めた小さな目標にしておきたいと思います。



最後まで読んでいただき、ありがとうございます。サポートしていただけるなら、執筆費用に充てさせていただきます。皆さまの応援が励みになります。宜しくお願いいたします。