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『お客様』


彩度の強い壁が幾つも立ち並ぶ、美しい街を歩いている。恐らく築100年はとうに越えているであろう、古ぼけた建物の地下に降りると、薄明かりに照らされたレストランがぼうっと浮かび上がった。建て付けの悪いドアを開くと、蒼白い顔をした店員がゆっくりとお辞儀をした。席に通されると、皺ひとつない真っ白なテーブルクロス、自身の顔がはっきりと映る程磨かれたカトラリー。ボルドーのガラス瓶の中でキャンドルが美しく輝いていた。

洗練された空間の中ふいに上を見上げると、天井は酷く蜘蛛の巣がこびりついている。店の方針なのかは分からないが、飲食店として如何なものか。

ささくれの様な違和感を覚えつつメニューを開くと、そこには自身の目を疑う光景が広がっていた。レモンクリームパスタ。A4サイズの二つ折りの紙に書かれていた文字はそれだけだったのだ。そしてそれは、記憶の中で唯一母が作ってくれた手料理だった。

僅かな苛立ちと排水溝にこびりついた髪の毛の様な違和感をなんとか押し殺しつつ、注文を終える。店によってはメニューがひとつしかない事もあり得るのかもしれない。よっぽどこだわりが強い店に違いないのだと。無理やり自身を納得させる理由を探し、ぼんやりと母の顔を思い出そうとするが、はっきりと浮かんでは来ない。いつも深く頭巾を被っている人で。子どもの頃に流行病で死んでしまってそれっきり。遺体は感染拡大の懸念から早々に燃やされ、形見は何も残っていない。

『お待たせ致しました』

蒼白い顔をした店員の声で、ふと我に返った。いつの間に眠ってしまったのだろうか。身体が重だるい。どれだけ時間が経ったのだろう。

ふいに手元の皿に目をやると、料理は何ものっていない。空っぽだった。

『あの』

さすがに声をあげずにはいられなかった。

『どういう事ですか、これ』

たった一品しかメニューもなく、眠ってしまうくらいの時間待たされ、皿には何の料理も提供されていない。おまけに客は何故か自分1人だけ。

『大変申し上げにくいのですが、お客様は当店をご利用頂けません』

『は?』

店員から返ってきたのは、拍子を抜かす発言だった。

『ですから、お客様は当店をご利用頂けません』

店員は表情ひとつ変えず、壊れたテープの様に同じ言葉を繰り返している。

『何故?』

『お客様は、こちらの住人ではありません』

終わり。

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