見出し画像

1.古い手紙、新しい輪ゴム:「好きなページはありますか。」ショートストーリー集

「捨てるようなもんはまとめといて、後から見てもらった方がいい?」
「いらん。うち捨てとけ」
「そう、わかった」

久々に開けた実家の箪笥から、長年そこに蓄積されたのであろう空気の塊がのろりと出てきた。溜めこまれた衣類の入れ替えもなされていないようで、もう使わないものたちが最後に行き着く墓場みたいな扱いになってしまっている。総ケヤキの重厚な箪笥は独り身の父が用いるにはあまりに重くて大きくて、中身を整理し終えたら処分すべきだろうと検討をつける。

どうやらこの箪笥のほかにも、実家の中は処分すべきものばかりだ。箪笥を中心にぐるりと家じゅうを見渡しながらところ狭しと並ぶモノ・モノ・モノを捨てる作業の量を想像すると、真夏の気温も相まって頭がゆらぐ。こんな暑い日にエアコンもつけず下着姿でいる父に「エアコンつけたほうがいいんじゃない?」と言ったところで「いらん」の一言で終わるだろう。

「いらない?」、「いらん」、終わり。いつものやりとりだ。そのやりとりに少しばかりの愛嬌みたいなものがあるのであれば、もう少しはやくわたしはこの土地に帰ってこられたのかもしれない。

***

長年の福岡暮らしから心機一転、わたしは宮崎へ帰ってきた。大分自動車道を経由しながら法定速度どおりの速度でのらりくらりと帰ってきたこの土地は相変わらずだ。相変わらず、どこが中心街かもわからないようなのんべんだらりとした繁華街があり、郊外の住宅街がある。そしてわたし達が生まれ育った木造2階建ての住宅も、その住宅街の端のほうに建っている。

宮崎県内、とくに宮崎市や日向市といった海沿いの街をはしる道路端にはいたるところにフェニックスが巨人のように立ち並んでいて、その巨人が立ち並ぶ防護網をかいくぐりながら車を走らせると、わたしたちを太平洋がむかえてくれる。

太平洋はいい。福岡の海岸で見るどんよりとした鉛色の日本海と比べると、同じ海だと思えないくらいだ。

動物でたとえてみるならば、ハシビロコウとレッサーパンダくらい違う。ハシビロコウなんてあんなに微動だにしない生き物を眺め続けて、いったい何が楽しいんだろう。きっとハシビロコウだって周囲を人間たちに囲まれてあれこれと野次馬な視線を投げかけられるせいで、あんな不機嫌な顔をし続けざるをえないのだろうけれど。

ハシビロコウにはハシビロコウの事情があるのだ。それは、尊重する。

とにかく、わたしにとっての太平洋はレッサーパンダとか、うまく焼けたトーストのうえのチーズとか、ちょうど出かけるタイミングで止む通り雨とかみたいに、ただ再会するだけで上機嫌にさせてくれる場所であり、ひとつの聖域みたいな場所だった。ひらかれて、やさしい聖域だ。

母は太平洋みたいな人だった。だいたいにおいて「いらん」か「やめとけ」しか言わないネガティブの権化のような父を「まあ、また堅い顔をして」といつも柔らかく受け流したのは母だった。

いつだったか近所のご家庭とのトラブルでかなり剣呑な諍いになったとき、頑なに相手の主張(庭木が敷地を出たとか出てないとか、そんなことだったと思う)を否定し続ける父と相手方との間に立ち仲をとりもったのも母だった。

「いいじゃないのあなた、べつにこの可愛い梅の木がうちの屋根を押しつぶしてしまうわけじゃないんですし。ねぇ」

そう言って双方を仲裁する母は、優しくおおらかでいるようで、なおかつ有無を言わせぬ雄大さを持ち合わせていた。

***

そんな暖かくてひろびろとした海のような母が4年前に他界し、父はまるで水源を失った貯水池のように枯れていった。見るからに細く頼りなくなった父は、母の三回忌の直後にはもう「いらん」すら満足に言えないようだった。そこには痴呆の気配があり、人生の軌道が上昇ではなく降下に、拡大ではなく縮小に向かっているという明らかな傾向がみられた。

母の甲状腺ガンが見つかったときに、医者の「甲状腺のガンはそれほど成長しませんから経過をゆっくり見ていきましょう」という言葉を信じ「お医者さまが言うことだ」と、辿りつく先が読めないはかなげな彗星みたいに無軌道な安心を演じたのは父だった。不安を表に出せぬまま、不都合な真実を知りたくないがゆえに動かず、信頼できるセカンドオピニオンを取りにいかなかったのは父だった。

そうしてのうのうと暮らしているうちに、ガンは母の身体のあらゆる箇所に転移し、母を乗っ取った。母は終始気丈に見えたけれど、その心中にどれほど険しい風雨が吹きすさんでいたのかは今や想像にしか委ねられない。

そのことで父が自分を責めているということは、それを彼自身のことばとして聞くことはなかったにせよ目に見えて感じられたし、わたしは父の失態について追及しようとは思わなかった。それはあくまで父と母との関係性であり、問題であり、生涯なのだ。わたしはふたりの生きた道について何も言うことはないし、できない。

わたしは母と父の子ではあるけれど、家族という間柄にも超えられない境界線がある。それはかぎりなく淡く不可視のようでいて、時としてあまりにも強靭で耐え難いほどにありありとわたし達の前に立ちはだかるのだ。

***

過去のあれこれを脳裏に巡らせながらも、片付けの作業は進めなければならない。なんと言ってもまだ、このケヤキの異常に大きな箪笥の抽斗数本にしか手をつけられていないのだ。今日中に何かひとつの「区切り」のようなものをつけて、明日は市役所に移転手続きに行かなくてはいけない。二人分の移転手続きを済ませてしまうには、すくなくとも半日はかかるだろう。

真夏の宮崎のお昼前はとにかく暑い。勝手にエアコンをつけてしまおうとリモコンを探したけれどそれも見当たらない。買い物にだって行ってないし、こんな異常な暑さのなかで昼食を作るなんて想像もしたくなかった。父が普段どんなものを食べているのかはわからないけれど、父のことだから自炊などしてはいないことは明らかだ。

「ねぇ、久々に『おぐら』なんて行きたいんやけど、どうやろか?」と尋ねてみる。聞こえないようだからもう一度、今度は叫ぶように訊いてみる。
「ど・う?お・ぐ・ら。久々に食べてみたいっちゃけど?」

それでもまだ、わたしの問いかけは父に届かない。まあどうせ届いたところで答えは決まっている。「いらん」だ。行くか行かないかを聞いても「いらん」。たぶん「あなたのことをずっと前から好きでした。愛しています。本当に心の底から愛しています」と言われたとしても、父は「いらん」と応えるのだろう。

いったいどのような間違いであの太平洋のようにおおらかな母が父と結婚したのかとかねがね疑問に思い続けていたけれど、こうしてわたしが不惑に達して家もすぐ近くに住み始めようというのに、その疑問は更に深まる一方となりそうだ。

「お昼ごはん、てきとうに買ってきちゃうからねわたし」
そう独りごちるようにこぼれ出たわたしの声は、日焼けした畳と同じ色をしていた。

***

箪笥の抽斗の中身の整理は、ようやく4本目が終わろうとしていた。古ぼけた不用品と思しきものは全て捨ててしまうために手近にあった紙袋に詰めていく。あとでスーパーにいって、宮崎市の指定ごみ袋を購入しなくてはならない。宮崎市のゴミ袋ってどんなものだったっけ。わたしはそんなことを気にかけつつ、できるだけ無心になろうと努めながら作業を続けた。

5本目の抽斗を開けたとき、湿った空気の塊は出てこなかった。いい加減、箪笥の中も換気されたのかもしれない。そしてその中には衣類ではなく、寄木細工の美しい小箱が入っている。

重たく面倒なものでなければいいけれどと箱を持ち上げてみると、木材の滑りが良くてツツっと箱の蓋が動いた。わたしはちらりと見えた中の紙束を何とはなしに取り出してみる。見てよいか見てはいけないか父に問うたところで「いらん」と言われるだろう。

どうせ、なんでも「いらん」だ。

箱の中身は手紙やハガキの束だった。分厚さは、わたしが両手でしっかりと握ってなんとか崩れないくらい。そのために設えられたのかと思うほど、手紙たちは寄木細工の箱の中にぴったりと収まっていた。

わたしは束をまとめている輪ゴムが新しいことに気づく。手紙は黄ばんでいたり角が丸くなったりしているのに、輪ゴムは伸びきることも脆くなることもなく、しっかりと手紙の束の角に食い込んでいる。わたしは両手の中指と親指を使って、輪ゴムを手前側に転がし束をほどこうとした。

「いかん」
「えぇっ!なんよちょっと、なに見てんのよ」
「そりゃ俺の台詞やろうが。勝手に人様の手紙を見るやつがあるか」
「なんでもうち捨てとけって言っとったやん」
「捨てとけと言ったが、読んどけとは言っとらん。ほんで、そん箱はな・・・」

父は、小さな子どもがそのお友だちに対して大切な道徳を言い含めるような口調で言った。
「そん箱だけは特別とよ」

急に、すこしだけではあるけれど口調が柔らかくなる父に、優しさというよりは幾ばくかの哀れさをおぼえた。

年を重ねるにつれ人は幼児がえりをするというが、母の死以来父の精神年齢は急激に低下したような気がする。厳粛さは頑固さに、もともとの短気は超短気に。そして今のように、唐突に子どもみたいな言葉遣いを始めたりする。

母が死んでから数度しか帰省できていないわたしが実家を離れすぎなのかもしれないけれど、家族と共にあることが当たり前となっていた人物が独りで生きるという営みには、想像以上に厳しいものがあるのだろう。

手紙の束をほどいてそれをぱらぱらとめくりながら、父は頬をゆるめたまま笑っていた。そんな父の顔を見たのは、わたしたちが帰省したあの秋以来かもしれない。

あのときの父は本当にやさしかった。でも逆にいえば、この人はほとんどこんな風にやさしく笑ったりなんかしたことがない。どんなにわたしを激励したり、褒めてくれるときも、その相貌は厳しいままだった。表情とことばが一致していないのだ。

「母さんは、怖ーぁか人やった」

父は、そのゆるんだ顔のまま唐突に言い放った。いや怖いのはあんただよ、とわたしは思ったけれど、その風貌がまるで「パンダはかわいいなぁ」とか「カンガルーは可愛いのう」と動物園でほのぼのと独りごちる愛らしい老人みたいだったので、ついわたしも一緒になって同じような顔をした。

「どうしてよ、お母さんは怖くないでしょう。いつも優しかった」とわたしは言う。座敷部屋にあぐらをかいたステテコとランニングシャツ姿の愛らしい老人は、わたしを諭すように首を横にふった。父が父でないみたいに楽しそうな姿だった。

「お前も本格的に大切な人と一緒に暮らすっちゃから、そろそろ話しとかんとな」
「話しとかんとって、何をよ?」

わたしは福岡の口調から宮崎ことばに戻りながら訊き返す。
「何をって、お前。野暮なこと聞きよる」と父も返す。

近所の子どもたちが集い騒ぐ声がする。ここは住宅街なのだと思い出すまでに、すこしばかり時間が要った。父は、手に持った手紙の束のうち最も濃く黄ばんで年季の入った一通をわたしに差し出す。

「読むか?」

そうして父に尋ねられると、わたしはその一言が呼び起こす様々な思い出を心に描こうとする。描こうとするのだけれど、今この瞬間のわたしの両の目にはケヤキの箪笥と、座敷の傷んだ畳と、決して立派ではない古ぼけたちゃぶ台と、そのほか雑多で小さな和室の光景が目の前の父を中心にぐるぐると転回してしまい、肝心の思い出に思考が行き着かない。

なかなか具体的なかたちをとることができない思い出はわたしの頭の奥を痛ませたけれど、そこには無邪気な約束のような心地よさがあった。

まだ何の責任もない小学生とかそれくらいの時分に過ごした夏休みの夕暮れに「あぁ今日は楽しかったな。明日もきっとこんな風に楽しいんだろうな」と回想するような、そんな気持ちに似たなつかしい温度がわたしの胸を満たす。これはきっと、そのように手放しで純粋な気持ちのままで身を委ねてもいい類のものなのだ。わたしはそう心を決める。

わたしは父の差し出す手紙を受け取り、黄ばんだ縦長の封筒を開く。素っ気ないけれど、かつては目が痛くなるほどの純白だったであろうことが伝わる、厚みのある封筒だった。便箋の冒頭には母の名がある。いつもの父らしく立派な字だけれど、これがいつ頃書かれたのかはわからない。

彼に何かを問うてみたいけれど、その答えはすべてこの手紙の中にある気がして、やめる。そうしてわたしは今、親子の境界の向こう側の思い出を知ることになる。

父が母に宛てた手紙は、こう始まった。

「好きなページはありますか。」
あの時貴女が其のようにお尋ねくださらねば、私はこうして貴女に手紙を差し上げることもできなかったでしょう。

わたしは読む。
父の目の前で、読む。

そして知るのだ。
太平洋のようにひろく優しかったひとりの女性と、目の前に座っている頑固で譲らず屋で、しかしながら老いと共にやせ衰えているひとりの男性とがどのようにして出会ったのかを知る。

わたしはこれから、ひとひらのページから始まった物語をたどることになる。

「1.古い手紙、新しい輪ゴム」おわり。

宮崎本大賞実行委員がお届けするショートストーリー集「好きなページはありますか。」をお読みいただきありがとうございます。下記マガジンに各話記事をまとめていきますので、フォローしていただけると嬉しいです。

≪企画編集≫
宮崎本大賞実行委員会

≪イラストディレクション≫
河野喬(TEMPAR)

≪イラスト制作≫
星野絵美

≪文章制作≫
小宮山剛(椎葉村図書館「ぶん文Bun」)

「好きなページはありますか。」は宮崎本大賞実行委員有志の制作です

この記事が参加している募集

熟成下書き

忘れられない恋物語

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?