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【シロクマ文芸部】さよなら、二人の初夏の音


 「初夏を聴く」
 これは、息子の竣のゴールデンウィーク中の宿題だ。この不思議な宿題をするために、私と竣は二人でここへやって来た。ここは、半島に突き出した小さな岬でとても景色のいい所だ。夫は友人の結婚式で昨日から実家に帰っている。今日も実家に泊ってくると言うので、今日のうちに宿題をやっておこうと朝から車を走らせてここまで来た。

 空は青く澄んでいて薄い雲が所々浮かんでいる。眩しい太陽から放たれるジリジリとした日差しはもう夏のようだ。今年初めて着る半袖に時折爽やかな風が通り抜けていった。

 「お母さん、ここで初夏って聴こえるの?」
 「うん。ちゃんと、聴こえるよ。耳を澄まして、心で聴くんだよ。竣にも聴こえるよ、きっとね」

 それにしても不思議な宿題を出してくれたものだ。こんな宿題を出すなんて、まったくあの人らしい。昔、付き合っていた大好きだったあの人……。

+ + +

 あの人に再会したのは、竣の入学式の時だった。担任として現れたのがあの人、松山圭介だった。圭介を見た瞬間、私は動けなくなってしまったけれど、夫に怪しまれないように必死に平常を装った。久しぶりの圭介は前と変わらず長身で爽やかな笑顔を浮かべて教壇に立っていた。

 「担任、ずいぶん爽やかなヤツだな」
 「本当ね。子供好きそうな先生ね」
 当たり障りのない言葉を言うのが精一杯だった。

 それから2週間ほど経った頃、家庭訪問があった。今回の家庭訪問は、玄関先で10分程度話をするだけなのだそうだ。当日、私は仕事を休み、朝から念入りに掃除をした。
 午後になり、竣が学校から帰ってきた。
 「お母さん、今日、松山先生がうちに来るの?」
 「そうだよ、松山先生うちに来るよ。楽しみ?」
 「うん!早く先生来ないかな」

 3時過ぎに圭介はやって来た。息子の担任の松山先生として。玄関を開けると、あの頃と変わらない圭介が立っていた。
 「こんにちは、竣君の担任の松山です」
 「こんにちは、先生。お待ちしておりました」
 竣は先生が来たのが嬉しくてたまらないようで、玄関先で私にまとわりついて離れない。圭介は何か言いたそうな眼差しをこちらに向けながら、学校での様子を話してくれた。こちらからも一つ二つ質問をして家庭訪問は終わった。
 圭介が玄関を立ち去ると、私はその場に立っている事ができずにペタンと座り込んでしまった。

+ + +

 初夏を聴きに来たこの岬は圭介との思い出の場所だ。まだ恋人同士だった頃、私達は何回もこの場所を訪れた。圭介は特に初夏の岬が好きだと言っていた。
 「美佳子。俺、ここには初夏に来るのが一番好きなんだよね。ここに立っていると、初夏の音が聴こえてくるんだ」 
 「初夏の音って?」
 「初夏の音は初夏の音さ。心で聴くんだよ。美佳子にも聴こえるさ、きっとね」
 「そうなの?私にも聴こえるかな」

 耳を澄まして、目を閉じると今でもあの頃と同じ初夏の音が聴こえてくる。

 「お母さん、あそこ見て!松山先生がいるよ!!」
 竣が指さす方を見ると、圭介が立っている。竣は圭介に向かって走り出していった。竣と圭介が連れ立ってこちらに歩いてくるのが見える。

 「松山先生も初夏を聴きに来たんだって!!」
 「あら、そうなの?先生おはようございます」
 「おはようございます。ここに初夏を聴きに来られたんですね。そうですか……」
 「お母さん、先生。僕、初夏を聴きに行ってくる!あそこで聴こえそうなんだ」
 「遠くに行っちゃだめよ。迷子になっちゃうから」
 「はーい!そこで聴いているね」

 竣は初夏が聴こえるポイントに走り出した。走る竣を見ながら、私は心臓がドキドキするのが止まらない。横をそっと見ると、圭介は前と変わらない爽やかな笑顔を浮かべて私を見ている。

 「美佳子は昔とちっとも変わらないね。入学式で見た時、すぐに分かったよ」
 「圭介もね。相変わらず爽やかなのね。私もすぐに分かったよ。ね、圭介。ずいぶん不思議な宿題を出すのね。ほんと、あなたらしいなと思ったわ」
 「俺らしいだろ」
 そう言った圭介はくすりと笑った。

+ + +

 レジャーシートに座った私達は海を眺めながら、黙ったままだ。ゴールデンウィークだけど、この岬は穴場なのかそれほど人はいない。のんびりとした時間が流れる中、持ってきた冷たいコーヒーを圭介にも勧めた。コーヒーを飲みながら海を眺める私達はまるで昔に戻ったみたいだ。

 目を閉じると、あの頃と同じ初夏が聴こえる。あの頃に戻りたい、そう思った事が何回あっただろう。あの頃、私は圭介をたしかに愛していたし、圭介も私を愛していただろう。今でも圭介は私の心の奥の深い所にいるんだと思う。

 圭介の右手が私の左手を包み込む。その大きくて温かな手が私の左手を包み込むと、私の心臓がまたドキドキと騒ぎ出した。その懐かしい感触は過去の感情を思い出させるには十分だった。
 「美佳子、俺……」
 「圭介……」
 二人の声が重なった時、少し離れた所から竣が私を呼ぶ声がした。

 「お母さーん!初夏の音が聴こえたよー!!」

 我に返った私は、竣の所に向かうために立ち上がった。
 「松山先生。竣、初夏が聴こえたようですね。宿題、できたみたいです」
 そう告げると、私は竣の所に走り出した。そう、これでいいのだ。私と圭介との関係はもう終わった事なのだ。圭介は竣の担任の先生で、それ以上でもそれ以下でもない。

 竣の所に着いた私が振り返ると、もうそこに圭介はいなかった。圭介の温もりが残る左手を頬に当てると、少し涙がにじんだ。初夏の爽やかな風が半袖を通り抜けると、”さよなら”と聴こえた気がした。私も”さよなら”と心の中で返事をした。

 さよなら、二人の初夏の音。私は、もうここで初夏の音を聴く事はないのだろう。私は私の初夏の音をこれから一人探していく。


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小牧幸助さんのシロクマ文芸部に参加します。
今回のお題は、初夏を聴くです。
ちょっと長文になってしまいましたね。


今日も最後まで読んで下さってありがとうございます♪



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