当事者が語る坂口安吾ライスカレー百人前事件
ライスカレー百人前事件とは
「堕落論」などの評論や「白痴」などの小説で知られる無頼派作家、坂口安吾。
彼のエピソードでとりわけ有名なのは「ライスカレー事件」「ライスカレー百人前事件」と呼ばれる話です。
これは坂口安吾が檀一雄の家に滞在していた時に突然「ライスカレーを百人前注文しろ」と言い始め、実際に近所の食堂に注文させて百人前のライスカレーを運ばせたという事件なのですが、どうしてこんなことが起きたのでしょうか。
坂口安吾と覚醒剤
坂口安吾は1931年(昭和6年)、26歳の時に同人誌「青い馬」に発表した小説「風博士」「黒谷村」が評価されて華々しく文壇デビューを果たします。
ところがその後の小説はなかなか評判にならず、少ない稿料や借金で酒を飲んだり、先輩作家の家に居候したり、酒場の女性と身を隠すように暮らしたりと放浪の日々を送ります。
第二次世界大戦が始まり、多くの作家は疎開したり召集を受け従軍記者として国外に向かいますが、安吾は徴兵を避けるために日本映画社の嘱託になります。そして映画の脚本を書いたり、空襲が始まった東京に残って戦争とその中に生きる人間を見つめ続けます。
そして戦争が終わって翌年の1946年(昭和21年)、坂口安吾41歳の年に発表した評論「堕落論」と小説「白痴」が評判になりました。
終戦によって、それまでの道徳や価値観が崩壊し、生きるためには法を犯してでも食料や日用品を売買し、肉体を伴う恋愛や肉欲を謳歌することが当たり前の社会になりました。そんな、かつては「堕落」と考えられていた新しい生き方を肯定し、そこから新しい価値観や倫理を掴もうという安吾の言葉が多くの人の(おそらくは後ろめたさもあった)心に響いたんだと思います。
そこから急激に増えた原稿依頼に対応するために、安吾は当時合法だった覚醒剤「ヒロポン」「ゼドリン」(※)を用い始めます。安吾は執筆を始めると書き終わるまで、外出もせずに集中して書き続けたらしく、その集中力を持続させるために覚醒剤が必要だったようです。
※ヒロポンやゼドリンは1949年(昭和24年)に厚生省によって劇薬に指定されるまで薬局で購入できる覚醒剤として製造されていた。完全に使用・所持が禁止されるようになったのは1951年(昭和26年)に覚せい剤取締法が施行されてから。
このように三千代夫人は安吾の仕事ぶりを述懐しています。
また、執筆が終わるとヒロポンで覚醒させた意識を鎮静させるために多量の酒を飲みました。この鎮静作業はのちにアドルムという睡眠薬を用いるようになります。この辺りの事情は、安吾自身がエッセイ「小さな山羊の記録」に書いています。
ここでは蓄膿症による吐き気を抑えるために覚醒剤を用いたと書いていますが、のちに安吾がアドルム依存で入院した際に耳鼻科医に診察してもらったところ鼻に故障はなく、精神疾患の症状の一つだろうと言われています。
この、覚醒剤で意識を覚醒させながら執筆をし(またはしようとし)、多量の睡眠薬で無理やり眠る(または眠ろうとする)生活によって安吾は完全な薬物依存症に陥り、幻聴や幻視、妄想にとらわれるようになっていきます。
1949年(昭和24年)には薬物依存症を治療するべく、安吾は東大病院神経科へ入院。14日間の持続睡眠療法を受けます。
依存症から抜け出し、少しずつ仕事を始めた安吾でしたが、半年もするとまた不眠からアドルムを飲み出し、依存症の症状が再発します。安吾のエッセイ「わが精神の周囲」にその事情が書かれています。
その後も度々アドルムを飲んでは依存症の症状を再発させ、2階から飛び降りたり家具を放り投げたり、裸になり杖を持って人を追い回すというような行為に及び、逮捕され留置所に入ることもありました。(余談ですがご子息が誕生した報せを受けたのも留置所から出たところだったそうです)
そして起こったライスカレー百人前事件
1951年(昭和26年)、当時住んでいた伊東に競輪場ができて夫婦で通うようになった安吾は、8月16日のレースの写真判定に不正があったとして静岡地方検察庁沼津支部に告訴状を提出します。そこからだんだん被害妄想を深めた安吾は、身を隠すために石神井にあった檀一雄宅に身を潜めることにします。
そんなある日、安吾はまたしても睡眠薬を飲んで激昂します。その理由については安吾が檀宅にいた時期のことを書いた「安吾行状日記」冒頭の「三文ファウスト」に書かれていますが、やはり妄想の靄がかかったような、わかるような、わからないような話です。
これは結果ですが、破れカブレになった理由としては競輪の写真判定に使われた写真が偽造のものであるという証拠を押さえたので不正事件の顛末を記した写真入りの本を自費で出そうとしたものの、その相談していたうちの一人がうかつにも葉書で相談内容を書いてくるのでその軽率さに出版の情熱を失った、ということのようです。
とにかく睡眠薬によって激昂した安吾は、ライスカレーを百人前注文しろと言い出します。
檀一雄から見たライスカレー百人前事件
檀一雄はエッセイ「安吾・川中島決戦録」「坂口安吾」にこの時のことを書いています。まずは「安吾・川中島決戦録」からみてみましょう。
続いて「坂口安吾」
これ、よく読んでみると、注文したのは百人前でしたが、届いたのは二十人前くらいだったと書いてありますね。確かにそんなに店に皿があったと思えないので、これが本当だったのかもしれません。
三千代夫人から見たライスカレー百人前事件
三千代夫人は安吾との日々を回想した「クラクラ日記」を出版していますが、「競輪事件前後」という章でライスカレー百人前事件に触れています。
今では出前というと電話かインターネットで注文するものですが、この時は三千代夫人が店まで注文に行ったようです。すると、安吾の目の届かないところなので「百人前というふりで、二十人前ばかり持ってきていただけませんか」と注文することもできたかもしれませんね。「百人まえは食べきれなかった」と書いてあるから百人前が届いたとも読めなくもないですが。
また、「クラクラ日記」出版後のことが書かれた「安吾追想」という本の巻末に収録されている、関井光男(文芸評論家・坂口安吾研究者)との対談「夫・坂口安吾のこと」でも少し触れています。
一回で十人前、という言い方だとやっぱり二十人前で終わるのは不自然な感じがします。やっぱり本当に百人前持ってきたんでしょうか。
ヨソ子夫人が案内したライスカレー百人前事件の店
坂口安吾ゆかりの地を巡った紀行評伝、若月忠信「坂口安吾の旅」に、ライスカレー百人前事件のことを伺いに檀ヨソ子夫人を訪ねた「檀一雄邸のライスカレー事件」という章があります。
本当にライスカレーは百人前作られ、届けられたのか。そこのところに疑問が残るものの、当事者の証言を見比べることで当時の光景をより具体的に想像することができそうです。それにしても豪快な事件ですね。つくづく坂口安吾という人は規格外だなと思わされます。
参考文献
檀一雄「太宰と安吾」角川ソフィア文庫
坂口三千代「クラクラ日記」ちくま文庫
坂口三千代「安吾追想」冬樹社
若月忠信「坂口安吾の旅」春秋社
七北数人「評伝坂口安吾 魂の事件簿」集英社
「坂口安吾評論全集7 回想自伝篇」冬樹社
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