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映画カッコーの巣の上で(人間はどっちだ?)

こんにちは、Recovery of humanityの美月詞葉です。

今日は、1975年に公開された名作『カッコーの巣の上で』について紹介したいと思います。この映画は、ケン・キージーの同名の小説を原作としており、精神病院に入院した男性が、管理主義的な看護婦長と対立しながら、他の患者たちに自由をもたらそうとする物語です。ジャック・ニコルソンが主演を務め、アカデミー賞を含む数々の賞を受賞しました。

映画のあらすじは以下の通りです。

刑務所から逃れるために精神病と偽って精神病院に送られたマクマーフィーは、向精神薬を飲んだふりをしてごまかし、看護婦長ラチェッドの定めた病棟のルールに反抗していきます。最初は患者たちは彼の行動を不審に思いますが、次第に彼に賛同するようになります。マクマーフィーは、しゃべれないふりをしているネイティブアメリカンのチーフとともに脱走計画を立てますが、チーフは自分は小さな人間だと断ります。ある日、患者が騒動を起こした際、マクマーフィーも一緒に電気けいれん療法を受けさせられます。クリスマスの夜、マクマーフィーは女友達を連れ込んでパーティーを開きますが、そのことが発覚し、患者の一人ビリーが自殺してしまいます。マクマーフィーは怒ってラチェッドを絞殺しようとしますが、そのことでロボトミーという手術を受けて廃人になってしまいます。チーフはマクマーフィーを殺して窓を破り脱走します。

この映画は、単なる権力と自由の対立ではなく、当時の精神医学の非人道的な治療を批判する「反精神医学」という運動を背景にしています。精神病院で行われている電気けいれん療法やロボトミーという手術は、患者の人格や感情を奪うものであり、人間性まで統制しようとするラチェッドの姿勢に象徴されています。一方で、マクマーフィーは自分勝手な行動でありながらも、患者たちに刺激や楽しみや希望を与えていきます。彼は自分の自由だけでなく、他者の自由も尊重することを示します。特にチーフとの関係は感動的であり、彼が最後に脱走するシーンは忘れられません。

私がこの映画で一番深く考えさせられたのが、このシーンです。

クリスマスの夜、マクマーフィーは病棟に女友達を連れ込み、酒を持ち込んでどんちゃん騒ぎをやる。一騒ぎ終わった後の別れ際になって、ビリーが女友達の一人を好いていることに気づく。ビリーはマクマーフィーに可愛がられていた。マクマーフィーは女友達に、ビリーとセックスをするよう頼み込み、二人は個室に入っていく。二人の行為が終わるのを待っている間、酒も廻り、ついに寝過ごしてしまう。

翌朝、乱痴気騒ぎが発覚し、そのことを婦長からビリーは激しく糾弾され、母親に報告すると告げられる。そのショックでビリーは自殺してしまう。マクマーフィーは激昂し、彼女を絞殺しようとする。婦長を絞殺しようとしたマクマーフィーは他の入院患者と隔離される。チーフはついに逃げ出すことを覚悟し、マクマーフィーを待っていたが、戻ってきたマクマーフィーは病院が行った治療(ロボトミー)によって、もはや言葉もしゃべれず、正常な思考もできない廃人のような姿になっていた。チーフはマクマーフィーを自らの手で窒息死させた後、窓を破り精神病院を脱走する。

ラチェッドの姿勢は間違っていた?

動画にも載せましたが、このシーンでのラチェッドの在り方には何か納得できないものがあります。

彼女は看護婦長です。つまり、この精神科病棟の一番偉い立場の人間です。そしてある意味とても優秀。

でも、このシーンを見る限り、理性だけが化け物の様に大きくなったモンスターの様に私には見えて仕方がありませんでした。

理性の塊であるラチェッドは、温かい人間らしい心を持つマクマーフィーとは真逆の性格で、まるでその心は氷の女王です。

その姿はナチスドイツのアイヒマンの様にも見えました。

ただ彼女は自分が善であると思う事をただ淡々と行う。その様はまるで感情を失くしたロボットの様でした。

ラチェッドの失態

彼女はビリーを自殺に追い込んだ張本人です。看護婦長でありながら、この映画の中では、彼女はビリーの持つ吃音の原因も何も理解していなかったのではないかと思いました。

ラチェッドが、ビリーの行為を母親に報告すると脅すシーンが、この動画にはありますが、本来であればこんな事をしていいはずがないのだと考えます。

彼が何故、吃音の症状を抱えているのか?それを理解することが出来ていれば、ビリーに母親の事を言うのはナンセンスです。

ラチェッドは完全にこの時点で、ビリーを心理的恐怖で拘束しています。彼女の行為は、言葉による心理的暴力です。

どうか母親だけには言わないでと半狂乱になり、縋りつくビリーにラチェッドは見向きもしません。

彼女の頭の中に在るのは、その病棟の中にある秩序を乱したことがいけないということののでしょう。

でも、その報復として、ビリーが一番恐れていることを当人に伝え、その恐怖をあおることで、彼を自分の意のままに操ろうとしたこと、その恐怖でビリーの豊かな人間性を奪おうとしたことは到底許せることではありません。

映画を見ていて、心が痛むというよりかは、その彼女のなんとも言えない理不尽さに怒りすら覚えました。

いう事を聞かなければ、それは排除すべきもの

この映画は、看護婦長とラチェッドの対比がこれでもかというぐらいに描かれています。

ラチェッドは、患者を自分のものとする。言ってみれば、患者のペット化。それに対してマクマーフィーは、声を高らかにお前たちはヤツのペットではない、お前たちはその一人一人が尊重され、愛されるべき人間だ!という事を映画の中で見事に説いています。

このマクマーフィーも最後、ビリーの自殺を目撃し、その怒りでラチェッドを殺そうとするのですが、それがそこにある秩序を乱す危険な行為をする人間だという判断の元に、ロボトミー手術を受けさせられ、最後はあれだけ豊かな感性や感情をもった誰よりも深い人間らしさを持っていた彼も廃人にされてしまいます。

こうしたことは実際に行われていたことではありますが、この映画を見て深く考えさせられたことは、綺麗に整ったものが人間なのか?それとも、めちゃくちゃで凸凹であることが真の人間性であるのか?こうしたことを深く考えさせられました。

私たちが生きていくうえで、確かにラチェッドのいう秩序というものは大切なものではあります。でも、この映画が教えてくれていることというのは、秩序も行くところまで行けば、人間を縛り、その人間性の全てを奪ってしまう悪にもなりうるという事だと感じました。

私が管理し、支配してあげないと彼らは何も自分で決定できない。こうした考えが、ラチェッドにはあったと考えます。こうした歪んだ考えが、彼女の強い正義感と結びついた時、そこにはマクマーフィーが殺そうとした悪が潜んでいるのだと思います。

私たちはついつい、自分の子供に対しても、何もかもしてあげようとしてしまいます。それは、彼らがまだ自分では何もできないとそう誤認しているからです。

彼らには出来る。でも、それを否定し、その彼らをペット化してしまう。これほどに恐ろしいことはありません。

出来ないからしてあげる。これはある種とても傲慢な考え方です。できないとしてしまう事ではなく、出来るという前提の上に立って私たちは何に対しても議論していく必要があるのではないかと感じています。

この映画は、私に人間とは何だろう?より人間らしいのはどちらなんだろうか?という事を深く訴えてくる映画でした。

セルフマネジメントをしていても思う事ですが、相手をこうだと限定してしまうことほど恐ろしいことはありません。

いつでも、こうした自分の持つ傲慢さを点検しながら、日々クライアントさんとも向き合っていかねばならないと痛感している今日この頃です。

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