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日本人という種(形なきものの形を見、声なきものの声を聞く)西田幾多郎

幾千年来(いくせんねんらい)我等の祖先を孚(はぐく)み来(きた)った東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云った様なものが潜んで居るのではなかろうか。我々の心は此(かく)の如きものを求めて已(や)まない、私はかかる要求に哲学的根拠を与えて見たいと思うのである。(『西田幾多郎全集』第3巻255頁)

この言葉は今この現代を生きるわたしたちにとってとても重要な言葉であると私は考えています。

わたしたちは日本人でありながら、その思想は今や西洋の思想「有」の思想にどっぷりと浸かってしまっています。

西田幾多郎が言うように、東洋文化の根底には、「無」の考え方が潜んでいた。東洋文化には「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」といった「無」を求める要求がある。

でも今現代を生きるわたしたちには、もはやこの西田のいう「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」という事が出来ない。

わたしたち人間には身体全体知というものがある。体で知る。体全体であるものを体得するという考えがある。昔の人間というのは、これが出来た。

頭で理解するのではなく、身体全体で物事を理解することが出来た。

これを昔の人は頭でわかるとは言わずに、腹でわかるという言葉を使った。

身体全体でそこにあるすべてを感じる。これが昔の日本人にはできた。でも、こうした能力が今や失われつつあるというか、失われてしまった。

わたしたち日本人というのは、ある種とても特別な力を持つ種の1つだった。

でも、この特別な種である日本人も、西洋文明の影響を色濃く受け、その西洋から入ってきたものを一方的に賛美する方向へと流れていくことで、日本人として持っていた感覚、その全てを今失いつつある。

これはある意味、日本人という種の危機でもあるという気がしてならない。

感じて知る。これが日本人にはできた。微細なエネルギーを持つ私たちは、自然に流れる微細なエネルギーと一緒に共振、共鳴することが出来た。だから、昔の人間は自然から多くのものを学ぶことが出来た。

でも、今現代は、この自然と共に共振、共鳴するという事が出来なくなった。私たち日本人が持つ繊細で微細なエネルギー状態が今は失われてしまったからだ。

微細なエネルギー状態であり、又感覚も優れていた日本人であるわたしたちは、この感覚をいつの間にか奪われてしまっているという事になる。

わたしたちは自分でも知らぬ間に、日本人とういうアイデンティーを奪われてしまっているという事に気づかなければいけない、そんな気がする。

自然と共に、流れていた私たちは、この自然との繋がりを完全にたってしまった。自我がインフレを起こし、自然との繋がりは完全に絶たれてしまった。

これは本当に危惧すべきことだと思う。

声なき者の声を聞き、形なきものの形を見る。

これを西田は言葉によって説明してみたいといったわけだが、今この時代にこうしたことが出来る人間がどれだけいるだろうか?

右を向いても左を向いても、西洋かぶれの日本人である私たちに、こうした西田のいうような感覚を取り戻すことは出来るのろうか?

そんな事を最近よく考えたりする。

皆さんはこのことについてどう思うだろうか?

私のセルフマネジメントではこうしたことについて対話することもある。



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