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相手の心が歪んでいれば、どれだけ親身になって話したって無駄。まずは心の歪みを当人が自覚しない限り・・・。

何を言っても、皆、自分に都合よく全てを解釈するんだったら、他人が、何かをいう意味なんてもしかしたらないのかも知れない。

人間ってのは、誰しも、考え方や物事の捉え方に何らかの偏りがある。その偏りがある人に、何かを話した所で、その人はその偏った価値観で、こちらの言う事を捕らえる訳だから、こっちが思っている事がまっすぐには伝わっていかない。

そうなると、何をいった所で何の意味もないんじゃないか?と思えてくる。

人間ってのは、結局自分に都合のいい事しか耳に入ってこない生き物。もっと言えば、自分に都合の悪い事は、自分の消化しやすい形にして、そして受け入れる。自己正当化。

ありのままを受け入れる事が出来る人なんて、そうそういない。ありのままは、ただ相手を傷付けるだけなのかも知れない。まっすぐに、ただそのままに事実を述べる。そうすると、ほとんどの人は怒りだす。

せっかく事実を自分なりに歪めて、それで体裁よく綺麗に整えておいたのに、何故、それをめちゃくちゃにするんだ!と。自分を偽って偽って、いいとこどりだけで、自分を形成していたのに、どうしてそのバケの皮を剥がすような事をするんだと。

人間ってのは、本当に不思議。何もかも体裁よく、自己正当化を繰り返し、それで自分を形成しておきながら、本当の事を聞きたいとかいう。

本当の事を聞きたくないから、ありのままの事実を受け入れる精神的な力がないから、自分を体裁よく作り上げて、自己正当化の塊になっているのに、口では、本当の事を教えて欲しいとかいう。

彼らは、一体何を知りたいんだろう?とかってたまに思う。本当の事を聞きたいですと言いながら、言えば傷付いたとそう言う。だったら、最初から何も本当の事なんて聞きたいと言わなければいいのに。

自分を知るなんて事は、そんなに簡単な事じゃない。私たちは、自分を好きでいる為に、自分を自分に都合のいい形にする。そうする事で、自分に対する愛を維持している。

私たちは自分を愛したい。だから、自分に都合の悪い部分は切り落とす。自分の愛せない部分があれば、その部分を切り落とす。そうしないと、私たちは自分の事を愛せない。自己正当化、これがなければ、私たちはこの自分という存在を永遠に愛し続ける事は出来ないのかもしれない。

自分を知るってことは、この自分に対する愛、これを一時的に失ってしまう様な体験だと私個人は思っている。

自分が持っているその全てを何もかも切り落とさずに、その全てを自分の物として受け入れて、面と向き合う。これってとても苦しい事。自分を知るという事は、自分がいかに汚れていて、醜い存在であるか?という事を認め受け入れる事だったりする。今ある自己正当化の塊の自分を全否定する行為だったりする。それだけの事が出来ないのなら、本当の自分を知りたいなんて言って欲しくない。

自分にとって都合のいい事だけを聞いていたって、都合のいい部分だけを切り取って、聞いていたって、何にもならない。どこへ行って、誰に会ったって、この在り方が変わらなければ、どれだけ膨大なお金を積んで誰かの話を聞いたって、何にもならない。最近、なんとなくこうした事を思ったりした。

何を言ったって、無意味。聞く耳がない人、自己正当化してしまう人。自分に都合よく物事を解釈してしまう人。こう言う人を見ていると、結局、こういうタイプの人には、誰も必要じゃないんだろうな?とかって思ってしまう。

聞きたい!聞きたい!といいながら、彼らは何も受け入れようとしない。頑なな自我がそこにはあり、そこに染みていくものなんて何もない。自分を知りたい、本当の事を聞きたい!という人ほど意外に、何も受け入れない自我の強さみたいなものを持っているんじゃないかと思ったりする。

本当の事を知る。現実をありのままに受け入れる。これが出来ないからこそ、私たちは、毎日必死になって自分を偽っている訳で、まずここの理解がない人に何をいった所で、彼らの耳には、何も届かない。

彼らは、一体何を聞きたいんだろう?聞く気がないのに、一体何を聞きたいというんだろう?何も取り入れる気など何もないのに、一体何を知りたいというんだろう?最近、これが謎でしかない。





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