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連載日本史93 南北朝(1)

1336年、足利尊氏による光明天皇擁立と、後醍醐天皇の吉野への脱出を以て、60年近くにおよぶ南北朝時代が始まった。1338年には石津の戦いで北畠顕家、藤島の戦いで新田義貞がそれぞれ戦死、尊氏は正式に征夷大将軍に就任し、翌年には後醍醐天皇が死去した。北朝方の優勢が次第に明らかになる中で、北畠親房は「神皇正統記」を著し、南朝の正当性を主張した。しかし1348年には四条畷の戦いで楠木正成の息子である正行が戦死、さらに高師直が吉野を攻略し、南朝の行宮は更に南の山中の賀名生(あのう)への移転を余儀なくされた。南朝の衰退は誰の目にも明らかだった。

南北朝関係系図(山川出版社「中学歴史 日本と世界」より)

ところが1350年、今度は幕府の分裂騒ぎが起きる。尊氏の弟で幕府の裁判・行政部門を担っていた直義(ただよし)と、軍事・恩賞部門を担っていた尊氏との間で抗争が起こったのだ。観応の擾乱(じょうらん)である。背景には尊氏を支えた執事の高師直(こうのもろなお)と、直義を支えた引付頭人の上杉重能の抗争があった。南朝という強力な敵が存在していた時には結束していた両者が、その弱体化に伴って対立を顕在化させたという図式である。

観応の擾乱関係図(「山川 詳説日本史図録」より)

両者の対立は、新興武士と旧勢力の対立も巻き込んで泥沼化した。1352年、尊氏は直義を鎌倉に追い込んで毒殺したが、尊氏の長男で直義の養子になっていた直冬(ただふゆ)が旧直義派を率いて抵抗を続ける。尊氏は次男の義詮(よしあきら)に京都を任せ、自身は鎌倉にとどまって事態の収拾を図った。この年、尊氏派は観応半済令を出し、京と鎌倉の連絡路を確保するため、美濃(岐阜)・尾張(愛知)・近江(滋賀)の三国に限って、一年限定で守護に国内の年貢の半分を徴収して武士たちに分配する権限を与えた。期間限定・地域限定とはいえ、守護の権限を大幅に拡大したわけである。これが後に拡大して強力な守護大名、ひいては戦国大名の出現につながり、幕府そのものを崩壊させていく要因となるのだが、この時点では尊氏・義詮親子も、そこまでは考えが及ばなかったのであろう。

南北朝・観応の擾乱関係年表(「世界の歴史まっぷ」より)

尊氏派も直義派も、その時その時の状況によって南朝と結んで自派の勢力を拡大しようとしたので、虫の息になっていた南朝は息を吹き返した。1358年に尊氏が死去し、義詮が二代目将軍となったが、その翌年には南朝の懐良親王・菊池武光連合軍が筑後川の戦いで勝利し二年後には大宰府を占拠する。1364年には旧直義派が幕府に帰順し、幕府の内部分裂はおさまったが、勢力を回復した南朝は、特に九州を中心に支配圏を拡大していた。観応の擾乱に始まった幕府の内紛は、結果的に南北朝の分裂を長期化させることになったのである。




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