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「優しさ」について考えてみる。

ほぼ毎日と言ってもいいくらい「カチン」とくる事がある。
また家族の話しになってしまうのだが、何かにつけて挨拶というかコミュニケーションをするという事をしない。
例えば、主夫である自分が家庭の消耗品を買い揃え補充してたとする。
買ってきて補充した本人としては、沢山使ってくれて構わないのだが、持っていく時、使う時、なんかしらの言葉を声かけをして欲しいと思う。
それこそが人と人を繋ぐコミュニケーションだと思うし、例えそれが気心知れた家族だとしても相手を気遣う「優しさ」だと思うし、マナーなんじゃないかと思う。
コレって間違っているんだろうか?
こんな事を自分以外の人に求める事って間違いなんだろうか?
気が小さい事なんだろうか?

後、例えば夕食等買ってきたとしても、自分は家族の為になんかしらのものも買う。
ちょっと多めに買って一緒に食べたいと思う。
常日頃、自分は家族の為に誰が食べても良いように冷蔵庫にも食材ストックは欠かさずする。
それを自分以外の人が食べる事は想定済みだし一向に構わないのだが、取っていく時や食べる時「何か一言」あってもバチは当たらないと思うのだが、うちの家族は一切合切しない。何も言わない。
それはある意味「盗人」と同じだと思う。

昔からうちの父親はそうだった。
何回も母親や俺から指摘されて大喧嘩になった事もある。
でも今現在も変わらない。
うちの兄も父親の血を濃くついでいるからそれをちゃんと世襲している。
まぁ兄の場合、自分が常に指摘して一応反省もするから良しとしてるが、根本的にそこら辺の感情というか情緒というか常識というか優しさ、思いやりが極端に欠けているから親子揃って変わらないし情けないとも思う。いい歳して。
昨日も自分が毎月補充しているドリンクを黙って飲んでいたから「それ新しく補充したドリンクですけど、なんかないの?一言?」と嫌味ったらしく指摘してしまった。
「あっ、いただきます」遅いっつーの!
そして昨日は彼は某ハンバーガーチェーンで色々夕食を買ってきて机に並べて食べていたけど、自分の分だけ買ってきて「良かったらどうぞ」のお誘いも一切なく1人で平らげていた。因みに自分も夕食はまだでした。
この前は僕が逆に買ってきた時は、ちゃんと「どうぞ!」と言って進めたら、しっかり食べてた癖に逆の立場になったら全くないという。
それも「気持ちのちっちゃい奴だな?」と言われるかも知れないけど、なんか釈然としないんだよね。
所謂「損してるのは自分だけ」みたいな。
「良いように利用されている」感が半端ない気がする。

家族愛とか思いやりとか、それは無償のものだから見返りを求めちゃいけないのは非常によくわかる。
でもさ、人間努力してる事は少し位は褒められたい時だってあるじゃない?
まぁ所謂「反面教師」となってる事例なのだけど、本当に情けなくなる。
1番身近にいる大切な家族がこんな最低人間なんだから。
亡くなった母親と自分はいつもいつもその事を恥じていたし、教育しなくちゃと躍起になっていた。そして2人で良く愚痴を言い合ってストレスを解消してた。
でも今1人になって誰とも言い合える事もなくストレスばかりが溜まる日々。
申し訳ないが、今回はストレス発散の為にお見苦しい内容を書いてしまった。
申し訳ございません。

こんな何気のない瞬間に「もう居ない」という現実が重くのしかかり、寂しさが顔を出してくる。
孤独感を否が応でも感じてしまう。
自分のダメな所なんだが、友達作りが下手くそ過ぎて、打ち解けて色々な話しを出来る他人は居ないので(基本信じられる他人は居ない、昔こっぴどく裏切られてる経験上)こんな時非常に切なくなる。
生きる意味とかこの世界に存在してる意義なんかが無くなりそうになる。
駄目なんだよな。

今更感も凄いし、諦めが強いし、傷つきたくないし、傷つけたくもないから、1人でいる事を今後も選択していくだろうけど、やっぱり1人は寂しいし、悲しいし、切ないし、孤独だ。
嫌なものは嫌なんだよな。
辛さは常日頃からある。
それでも生きたいと願う。
笑いたいと願う。
誰かを元気つけたいと願う。
だから、こんな文章を書いてしまうんだろうな。
コレからも変わらない。
損して笑われて貶されても。
多分生きる。

改めまして、こんな自分ですが、よかったら相手してくださいね。

寂しさに潰されそうだけど、ちゃんと今日も生きる。

続く。

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