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死を思え(メメント・モリ)「ロスト・ケア」を観て。(ママちゃんと俺の5年愛戦争 番外編)

介護に携わってる人達にとって、この映画は胸をえぐる事になるだろうと思う。

「ロストケア」

介護という現実は、やはり「当事者である本人と直接ケアする人達」にしか多分本当の意味での「理解」は出来ないのだろうと思う。
所詮「他人事」でしかない。
この社会は結局「弱者」には恐ろしいくらい冷たい。
この映画でも言ってる「この社会には穴がある」というのは間違いない。
その「穴」に落ちたが最後這い上がれるのは容易ではない。
しかし「よく周りに手を差し伸べてくださいね」と言われて手を差し伸べても、救済手段にはしっかりと金額が決められていて結局「お金がない人には無理」という資本主義社会の暗黙のルールにバッサリと切り捨てられる。
だから「やさしさ」なんて世の中にはないという事を自分も散々見せつけられてきた。
介護の終了は当事者の死でしかないという切なさが常に付きまとう。
「喜びも悲しみも一緒に分かちあったものにしかわからない深い悲しみ?なんですか?それ。絆?それがどれだけ家族を苦しめてるか!検事さん、一カ月いや、1週間でいいから介護を経験してみたらどうですか?あなたみたいな安全地帯から綺麗事を述べる人間が穴の底を這う人間を余計に苦しめるんです。」
このセリフがこの社会の在りようを如実に浮彫にしてしまう。
そしてこの映画の主人公である斯波は「救う」という名の殺人(ロストケア)を繰り返す。
喪失する人、救われたと思う人、それぞれがその立場で思いで感じかたは変わる。
答えの出ない答えを突き付けられる。これに明確に答えられる人間はいないと思う。特に今介護に従事して少なからず苦しんでいる「穴の底」にいる人達は特にそうであろう。
自分も答えられない。
でも1つ言える事は「他人に最後を決めつけられる事は要らぬおせっかい」だという事。
介護が死で終わりだとしても、殺してしまいたいと当時者が思ったとしても、死んだことで解放されたとしてもだ。
頼んでもいない事をやられる事は僕は嫌だ。
自分自身で納得したい。当事者がその判断が出来ないとしても家族が知らないというのは健全ではない。と思う。
だから「斯波」は裁かれなくてはならないと思う。
でもその行為を100%責める事は出来ないのだ。
自分も介護に於いて母親に声を荒げて怒ってしまった事も多々ある。
良からぬ事も考えてしまった事もある。実際。
介護はいい意味でも悪い意味でも人を変えてしまう。

家の場合は、母がそこまでの酷い状態になる前に病気であっという間に逝ってしまったので「穴の底」に入り込む事はなかった。
母は生前から認知症の症状もホントにゆっくり進行していたので常におだやかだった。そこはすごく助かった。
でも配線がつながったり切れたりする中で「つながった」状態の時、感謝の言葉や息子たちの心配、そして病への恐怖をぽつぽつと話してくれた。
その中で「そろそろ楽になりたい。長く生き過ぎた。自分の母親よりも長く生きてるのでもう十分だ。あなたたちと別れるのはちょっと寂しいけど(自分)あなたがいれば大丈夫ね、お兄ちゃんとお父さんをよろしくね。」
急にそんな事を言うもんだから「そんな事言うなよ!」とよく励ました。
でも今思えばそれが本音でそれが本人の望みだったのかもしれない。
だから病とはいえ、そこまで苦しまずに逝った事は良かったのかもしれない。
でも残された者たちは終わりのない後悔を繰り返すし、奇跡なんてものがあったかも知れないとかいう無責任な思考をまき散らしたりする。
ただ、自分的にはもっと生きていてほしかったしもっとこの世界の楽しさを美しさを体験させたかった。それにともかくもっとおしゃべりしたかった。
今だその「後悔」は続いているけど、最近は「母はもっと辛い事になる前に逝けた」事は良かったのかもと思えるようにはなってきた。
苦しかったんだろうから。楽になれた事は良かったのかもと。
死の瞬間まで一緒にいられた事は自分はまだ幸せだったのかもと思う。
でも最大の親不幸は彼女を「おばあちゃん」にしてあげる事が出来なかった事。自分と一緒に飲食店をやれなかった事。などまだまだある。
それは「本当に申し訳ない」の一言に尽きる。
ともかく、「母は幸せだったのかな?」という答えのない問をこれからも続けていくんだろうと思う。

僕の介護はまだ続く。「父親」という厄介で複雑な「ロストケア」に成りうるかも知れない介護が。


「ロストケア」を観た感想にかえて。


続く。


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