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「自分とは何者なのか?」を知りたくて人生を振り返ってみた

エノモトマサヒロと申します!

東京都出身の35歳で、現在はフリーランスとして、飲食ベンチャーの事業統括やキャリア支援の仕事をしています!
(3月に大きく変わる予定)

自分自身のこれまでと、これから。
生まれてから、これまでの「自分」というものを振り返っていきたいと思います!



1、幼少期(危ないことはしちゃだめ編)

1989年生まれの35歳です!
東京都板橋区高島平の出身で、一応東京なんだけども、もはや東京なのか、埼玉なのかもわからない地で生誕しました。

ですが、幼稚園に上がるタイミングで埼玉に引っ越すことになり、埼玉なのか、東京なのかな場所から、完全なる埼玉県民となりました。

今自分は身長183cmと大きい体にスクスクと成長しましたが、生まれた体重は2600gちょっとと、生まれてきた時はかなり心配されたみたいでしたが、しっかり育ちました。

すくすく育った大きな要因として一番に上げられるのが、よく食べる子だったということ。

両親は共働きで保育園に進むのですが、近所に祖母の家があり、いつもおばあちゃんにお世話になりっぱなし、おばあちゃんがつくるおにぎりが大好きで、常におにぎりを頬張りながら何かをしていたらしいという「The おばあちゃん子」でした。

集合住宅で育ったこともあり、常に友達や面倒を見てくれる兄ちゃん的な人たちと集合住宅内の公園やグラウンドで遊んでいたので、アクティブに動く幼少期を過ごしていました。
野球やサッカー、バスケット、縄跳び、リレー、鉄棒、幼少期にも関わらず、集合住宅のグラウンドで年上の兄ちゃんたちがやっているのに混ぜてもらい、そこから運動神経抜群な小学生時代に突入していくことになります。

ただそこだけでは満たされなかったのか、他の集合住宅に遊びに行って、いろんな遊びを教えてもらったり、公園もハシゴしたりして、新しい遊具で遊びたい!っていう自分の好奇心そのままに行動してしました。

なので、突然いなくなったり、飽きたりすると違うことにすぐ興味がいくので、すぐいなくなる少年として家族の中では認識されました。

今でも覚えているのは、北海道旅行に家族で行ったんですが、着いたその日に2回もはぐれてしまい、こっぴどく怒られました。

理由は、当時札幌の大通りで雪まつりというのがやっていたらしく、初めて見た雪のオブジェ?に興味津々になってしまい、気づいたらそっちに全力で走っていってしまっていました。もう一つの理由は、歩いてる時に、なぜだか急に面白い格好をした大道芸人がいて、そっちに目を奪われていたら、自分の目の前から家族がいなくなっていた、という感じです。笑

なので、新しいものに目がいってしまいますし、いってしまえばいなくなる。
これが家族間での僕への共通認識となりました。


駄菓子屋さんにもよく連れてってもらってですが、同じようなお菓子よりも、新しいもの、新作があると、真っ先にそれに飛びついていましたし、新しい遊びをしている人を見ると、僕もやりたい!と思わず飛びついてしまう。本当に本能のまま生きている子どもやな〜と今では思います。

今もコンビニの新商品発売!とかに目がないですし、新しいキャンペーン(おにぎり2個で何円引き!とか)をみると、おおっ!ってなり、買ってしまうので、結局変わっていないですね!


あと、成長を大きく後押ししたことがもう一つ。

当時は集合住宅の5階に住んでいたので、この時に足腰を鍛えられ、小学校でモテると言われる第一条件である、足が速い人の称号を得る伏線がここで誕生します。

なので、当時保育園に通っていましたが、足はダントツで早かったです。
なので正直モテました。

この時に感じてました。足が速い、運動神経がいいとモテるぞ。と言うことに。笑

この時からよく走り、よく食べ、よく寝る、という成長しかしない3拍子揃った生活を送っており、スクスクと育ちました。


2、小学校低学年(授業中一人だけ違うことやらないで編)


スクスク育った少年は、小学校に進学してからも、運動はめちゃめちゃ得意少年は変わらず、反対にジッとしていることが本当に苦手でした。

特にこれといった教科はないんですが、イスに座って授業を受けることがとにもかくにも苦手。

本当に苦痛でした。

なので、黒板に書かれたことだけは移して、聞いている風でしか授業は受けていませんでした。


反対に、体育の授業だけは、本当にイキイキしていて、どんなスポーツをやらせても基本的には一番になってしまうくらい、体を動かすことは得意でしたし、好きでした。

でも、一応座学的な授業でも、グループワークや、みんなで何かを考える、作っていくことは好きで、物理的に体を動かすことができることが好きでした。

なので、ただジッとしているのが苦手でした。
これは本当に今でもです。

会社員時代のデスクワークの時は意味もなく、トイレ行ったり、階段降りたり上がったり、電話するふりしてうろちょろしてたりしました。笑


学校が終わると、絶対に外へ遊びに行く。
そして必ず体を動かすことをやっていました。

とりあえず家に帰り、玄関にランドセル放り投げて、遊びに行く!
というスタイルを学校がある日は毎日やっていました。

家に1日中いる日は、病気以外だとおそらくなかったんじゃないかと思います。(ちなみに雨の日でも外へ遊びにいっちゃいます)
なんなら雨の日こそ出たくなっちゃいます。笑

それくらいアクティブ少年でした。

一方、座学的な授業はというと、クラスで静かに授業を受けることは苦手で、いつも違うことをやっていました。

授業中、ノートに放課後なにして遊ぶとかを考えてノートに書いたり、この遊びをするならどんなやり方でやったらもっと面白くなるか、どんなふうにして動いたら勝てるか、とか、ずーっと考えていました。


なので、ノートには全く関係のないことばかり書いているので、毎週のノートの提出では、「毎回、授業中一人違うことをやらないで」と書かれていました。

通知表にももちろん、集中して授業を聞いてください。
と毎年、毎学期書かれていました。

ちなみにこれはこれは中学3年まで続きます。笑


誰かに話しかけることもなく、集中して授業を聞いていると思いきや、一人全く違うことをしている。

ちなみに聞いているフリはめっちゃ得意です。笑


自分はどんな環境でも寝れるという特技があるのですが、そういうことだったのか、とも思いました。(ちなみにカラオケボックスやパチンコ屋でも寝れる自信があります笑)

どんな環境でも、自分の世界に入ってしまう。
入ってしまったら声をかけられるまで没頭してしまう。
好きと思ったことにはとことこん熱中してしまう。

どうすればもっと楽しくなるか、無意識に考えてします。
そしてやるからには絶対に面白くやりたい、1番になりたい。

自分は数字が苦手と思っていたんですが、常に数字を意識している思考があると気づいたのは遥か未来ですが、実はこの時から論理的思考も実はあったんだと気づきました。
(のちにアパレル企業でMDという仕事に就くのですが、MDは数字と睨めっこする仕事です)

テストの点数、マラソン大会の順位、運動会の順位、めっちゃ数字を意識してましたし、どうやったら一番になれるかを考えていました。なので数字が苦手というよりかは、計算式とかを覚えるのが苦手なだけであって、実は嫌いではないんだとも気づきました。

嫌いだと思っている先入観があると体は動きませんが、好きな領域になると勝ち負けがあることには負けたくないエネルギーが発動するのですが、そうでない領域は全く興味がなく、負けてもいいやになる。これが数学や理科だと思っていたんですが、実験は好きでしたし、運動能力をもっと伸ばしたい(もっと足早くなりたい)と思っている時は、めちゃめちゃ数字を意識していることにも気づきました。

そして、体を動かすこと、数字を意識することは高学年になって習い事を始めることになり、大きく加速していきます。


3、小学校高学年(ガラスに突っ込んだ小学生として有名人になる編)


低学年のころから運動神経抜群だった僕は、高学年になると突如人気者になります。

なぜならの説明はいらないんじゃないでしょうか。
だってみなさんの学校も同じような感じだと思います。

小学校では、運動神経いいやつがモテる。
足が速いやつがモテる。

これは全校共通ではないんじゃないでしょうか?



ちなみにというと私は、

・私は運動会の徒競走で負けたことがない
・毎回リレーの選手に選ばれる
・マラソン大会でも必ず上位
・体育の成績は必ず5

というスポーツ万能少年だったからです。


僕が通っていた小学校は、高学年になるとクラブ活動というものがあり、15個くらいあるクラブで活動するという、まぁ中学校でいう部活みたいなものなんですが、そのほとんど運動クラブだったことです。

あいつは足がめっちゃ速い。
あいつはバスケもサッカーもめっちゃうまい。
あいつに入ったら絶対に強くなる。

そんな噂が駆け回っていたからです。


しかし、私はとんでもない選択をします。


まさかの、ローラースケートクラブへの加入。

野球でも、サッカーでも、バスケでも、バレーでもない。

ローラースケートクラブ。


なんでやねん!と上級生にめっちゃ突っ込まれていた記憶が今でも残っています。

ちなみに、入ったきっかけは、
一番の親友がいたのと、入っているメンツが面白そうだから、というこの2点のみ。


何をやるかではなく、誰とやるか。
今も大事にしている価値観ですが、もうこの時点で大事にしていたんだなぁと改めて実感しました。

並行して、スイミングスクールと少年野球チームにも加入。

理由も同じ。

仲のいい友達とがこぞって始めたから。笑

自分の意思よわっ!って思ったりもしましたが、それだけ誰とやるかを重要視している裏返しでもありますね!


そこから、少年野球とスイミングを始めるのですが、運動神経抜群の僕は、皆さんの期待通りの活躍をすることになります。

スイミングでは、最速でクラスを駆け上がっていく。
このまま行ったら選手コースに最短で行くだろう。というコーチの声も聞きましたし、

少年野球では4年生にして上級者チームのレギュラー。
このまま行ったら、間違いなく6年生になる頃には無双状態になるだろう。

なんて自分でも思っていました。


ですが、ここで事件が起きます。

ガラスに突っ込み血だらけになる事件です。

スイミングスクールには当時更衣室から、プールのドアが透明な自動ドアだったんですが、いつも空いているため、突っ込んだ日も空いていると思っていたんですね。

自分がいつも一番に着替えて、一番にプールに入りたいと思っていたので、その日も一番乗りでプールに向かっていました。

そのままの勢いで走って行ったら、ドアが閉まっていることに気づかず、「ガッシャーン」と、自動ドアと正面衝突。

自動ドアは木っ端微塵。
自分は全身血だらけ。

救急車で運ばれ、即手術、即入院となりました。

好きなことには集中しすぎることゆえに、周りを見ずに猪突猛進することを初めて後悔した瞬間でした。

周りが引くほど好きな事に没頭してしまう自分を後悔しましたが、自分は都合の悪いことは忘れる性格なので、この経験も1ヶ月後には何もなかったかのように忘れ生活していました。

本当に周りの人に心配かける性格だな〜と今でも思います。

心配かけまくったと思いますが、それだけ熱中できることを許容してくれた親に今はとても感謝しています。


4、中学生(野球しか興味ない少年がちょっとヤンチャ覚えちゃう編)

中学校に上がった自分は野球部に入部。

本来ならシニアという、サッカーでいうユースみたいなところのクラブチームに行こうとしていたんですが、僕は普通に中学校の部活に進みます。


理由は簡単。
仲のいい友達がみんな入ったから。

本当にそれ以外の理由がないくらい、一緒にやることを大事にしていました。



そして、入ったらもちろんレギュラー!
と思いきや、3年まで試合に出れないことに。ここで初めて挫折!?


と思いきやそうでもないいんですね。


仲のいい友達と付き合うことが多かったのですが、ここで思春期特有のヤンチャに流されてしまいます。

タバコ・お酒・ケンカ。


でもどれも本当はすべて好きじゃない。(タバコ・酒は今も嫌いです)


やってしまった理由は、友人との付き合いのみ。
これだけでした。


おかげで、全く学校生活に身が入らなくなり、授業中は漫画を読んだり、抜け出して遊びに行ったり、荒れている学校だったので、ケンカも日常茶飯事。

自分は中途半端に付き合っていましたが、そんな自分に嫌になり、3年生からは部活だけはしっかり参加するようになっていました。


でもそこで、今思うとちょうどこのタイミングで奇跡のような出会いをします。
当時3年生の時に部活に新しく赴任してきた先生です。
(野球部のコーチにもなる)


普通ヤンチャを少しかじっていると、先生の言うことを簡単には受け入れない生徒が普通は誕生するんですが、その先生は僕に対して、

「お前は野球のレベルはすごいものがあるから、授業はどうでもいいから、部活だけはちゃんとやれ!」

この一言が僕の運動熱に火をつけ、練習だけはしっかりやるようになりました。
今思うと、とんでもないことを言っていますが、本当に感謝しています。


そのおかげあって、勉強は全くの3年間でしたが、野球だけは自信があったので、セレクションに行き、私立の野球の強豪校に合格。


スポーツ推薦で進学ができました。

自分の「強み✖️才能」これをかけあわせたら、苦手なことはやらなくてもなんとかなる。

そんなことも思ってしまった、中学生活と同時に、将来の夢はプロ野球選手になる。と明確な夢を初めて持ったことを覚えています。



5、高校生(野球・野球・野球編)

高校時代を一言で言えば、野球野球野球です。

ですが、ここで本当の挫折をします。

周りのレベルがめっちゃ高すぎたことです。


自分が進学したのは甲子園で優勝したこともある、強豪校だったのですが、周りはよくいうエースで4番の連中ばかり。

今までは、自分より上のレベルの人間に出会ったことがなかった中、周りは自分よりもすごい人しかいませんでした。
同級生にプロになったやつもいますし、中学時代に日本代表のエースだったやつもいました。(1年生で140km投げちゃうような奴)

結果的にレギュラーにはなれませんでしたし、負けず嫌いだったと思っていた自分が負けを認めてしまうことになりました。(途中レギュラーを諦めていました)

でも試合に出る、レギュラーになる。という前提で野球部に入部したのに、なぜそんな簡単に諦める、って思うかもしれません。

諦めたという表現が正しくないですね。

だってその当時は、それ以上にめちゃくちゃ大事なことに出会えたんですから。

それは仲間です。

試合に出れなくて悔しい思いもありましたが、スタンドで応援していても苦に思うことは不思議とありませんでした。

お茶を運んでるときも嫌な気持ちはありませんでした。

唯一、嫌だと思ったのは、野球部以外の人に見られるのはめっちゃ嫌でした。

レギュラーになってない、試合に出てない自分カッコ良くない。
きっとどこかでは思ってたんだと思います。

だって、野球部以外の知ってる生徒から見られるのは嫌でしたから。

でも、そんな気持ちも忘れるくらい濃密な時間だったので、気づいていない時は、支える作業やサポート業務に没頭していたりもしました。


試合に出ているメンバーは試合で活躍するという役割があると思いますが、自分には自分の役割もあると理解できていたからです。


スタンドで応援するというのは、観客ではなく、自分もプレイヤーの視点で応援していたんだと思います。

役割は違えど、同じGOALを目指す仲間と、共に未来に向かっていく。
甲子園出場という目標に向かって全力で取り組む。

なので、応援でも手を抜くことはありませんでした。
これは今でも誇りに思っています。


もちろん大会で負けた時は、死ぬほど泣きました。
1年生のときから号泣していました。

負けた悔しさもですが、この仲間でもう野球ができないことが寂しくて泣いていました。

最後の大会はもう立ち直れないくらい号泣していたと思います。

それくらい仲間とやることに意味があると実感させられた3年間でした。

なので、大学でもう一度チャレンジしよう。
やっぱり、プロ野球選手になる夢は諦めたくない。

そう思い、大学もまた野球の強豪校へ進学することを決めました。



6、大学前半(キラキラ大学生へ。野球を辞めた理由はオレンジデイズ !?編)

大学進学し、野球部に入部。

したまではいいんですが、結果1年の夏で野球部を退部。
スタートからずっこけます。


ですが、僕はこれをずっこけたと思っていませんでした。


なぜなら、大学に通っているおしゃれな連中がキラキラして見え、その仲間入りをできたと思っていたからです。


当時「オレンジデイズ」というドラマが流行っており、マジでオレンジデイズに憧れました。

あんなキラキラしたキャンパスライフを送れたらどれだけ楽しいだろうか。。。

なぜ自分は坊主にジャージで授業を受けているんだ。

こんなことを想像していたら、気づいたら野球熱が一気になくなり、辞めていました。もう一度プロ野球選手になる!と決めたあの熱はどこへ行ったのか?と自分では思っていましたが、それよりも、かっこいいキャンパスライフを送りたい!その気持ちの方が強くなりました。



そこからです。


僕のモテたい、カッコつけたい、という欲にまみれた学生生活が新たにスタートしました。


大学のキラキラといえば、なんと言ってもサークル!
学食でのたわいのない仲間との時間!

を想像していたんですが、私はそうでなく、アルバイトに熱中することになります。


アルバイトの数は、大学生でもトップレベルの数を経験しました。笑
3時間で辞めたもの、2日で辞めたもの、2年以上続いたものとありますが、全て含めたら20近くやったんじゃないかと思います。

・コンビニ(ファミリーマート)
・バイク宅配(ピザーラ・CoCo壱)
・本の仕訳(凸版印刷)
・引越しのサカイ
・ショップ店員(ムラサキスポーツ・ビラボン・ZARA)
・ディズニーランド
・レンタカー回収ドライバー
・コナミスポーツクラブ
・コンビニ弁当を作る工場
・スーパーの品出し
・リユースショップでの買取業務
・お台場冒険王スタッフ
・BARで皿洗い
・テレアポ



こうして全部書き出すと結構やってますね。笑
でも1年以上続いたのは、ムラサキスポーツ、コナミ、ZARAだけです。

一人でやる仕事もありましたが、やっぱり誰かと何かをすることが好きということ。ヒトに直接関われる仕事が好きなんだと。このうちムラスポとZARAはモテたい、って理由で始めたんですけどね。笑


7、大学後半(バイト・バイト・バイト、たまに授業、たまに就活編)

大学生活後半に入っても、バイトバイトバイトな日々でした。

正直、就活も舐めていたというか、速攻で終わらせたので、マジでバイトに明け暮れていました。

モテたい、かっこいい自分でいたい、その欲求は凄まじく、結果モテたいを軸に就活をした結果、アパレル企業から内定をもらい終了!

本当にスピード感で終えました。笑


でも決めた理由はちゃんとあります。
モテたいが第一優先でしたが。笑


一応僕も就活たるものは少ししました。

まず大規模な就職説明会が当時、東京ビックサイトとか、幕張メッセとかでやっていたんですが、その説明会でめちゃ違和感を感じたんですね。

同じような、リクルートスーツを着て、
同じような、人事の人の話しを聞いて、
同じような、感じでブースを回って、
同じような、人しかいないように見えちゃったんです。

で、その場が気持ち悪くなっちゃったんです。
楽しくない。直感でそう思いました。

そこから考えました。

スーツ着て働きたくない、就活で感じた違和感でもある、同じリクルートスーツを着て、同じような企業説明を聞いて、そんな周りが嫌になり、やぱりモテるならカッコイイ服着て仕事したい。


そんな理由で私服で働ける会社がいい!
そんな安易な考えで出てきた答えが、アパレルだ!と。

洋服の販売はバイトでもしてたし、得意だし、いけるやん!と。


そんな感覚で受けた大手アパレルだったんですが、自分が入社することになる会社はそんじょそこらのアパレル企業とは訳が違いました。


当時(今もまだまだその風潮はありますが)アパレルは低賃金・重労働とも言われていました。

営業という括りで言うと、外資は別かもしれませんが、ドメスティック企業の洋服を販売する仕事は基本的に賃金が安い!そんなイメージがありました。

そんなアパレルになぜ就職したかというと、当時の社長が言っていた言葉があまりにもカッコよかったから。



我々は今のファッション業界を変えたい。
いや、ファッション業界というよりは、販売員の常識を変えたい。
会社を支えてくれているのは、現場の販売員なのに、現場の販売員の給与が一番低いのはおかしい。

役職を上げないと、とか。
本社に行かないと!とか。

キャリアアップしないと給与が上がらないなんておかしい。

だから、我々は販売員の給与を一番高い会社にしたい。
販売員の社会的地位の向上をしたい。


これにやられました。
うわぁ、この会社で働きたい、と心の底から思いました。

なので結果的に就活は速攻で終わるのですが、ここの会社以外で働くイメージがつかなかった、っていうのがあります。

もうこの会社でしか働きたくない。
その会社の人事の人だけはめちゃめちゃ輝いて見えました。

働いている人全てがカッコ良く見えました。


この人たちと働きたい。
自分もここで働きたい。


直感がそう言っていました。
絶対に働くんだ!って。

この人たちみたく、自分も一緒に働きたい!そう思える人に必ずなる。
この人から洋服を買いたい!そう思ってくれる販売員になる。

そう確信した僕はその1社が決まった時点で就活は終了!


モテたいが理由でしたが、モテたいって理由が吹き飛ぶくらい志望度も爆上がりしたので、結果的に100点をつけられる就活になったと当時は思っていました。


8、社会人(1年目・人生を変える上司との出会い編)

そのまま一部上場の大手アパレルに就職。
販売員としてアパレルのキャリアをスタートさせた。
僕が入社した会社ではES制度(エデュケーター・ステューデント制度)といって、担当制で若いスタッフを育成する仕組みがあった。

ここで最初の転機が訪れる。

僕の人生を大きく動かしてくれた上司との出会いだ。

その人のことを言うならば、

・とにかくポジティブ。
・とにもかくにもポジティブ。
・全てがお客様目線。
・周りを巻き込むパワーがいかつい。
・売上が桁違い。
・顧客様の数も桁違い。
・数字に強く、マネジメント力もある。

もう何もかもが桁違いだった。

スーパースターだった。

その人には敵わないとも思った。

だからこそ、ちょっとでも近づけるようその人の真似をした。
とにかく真似をしまくった。


ちなみにその人は最短最速で店長に上がり、 今も活躍している。


9、社会人2~4年目(何者でもない自分がなぜ最高売上を更新したり、最速で店長に昇格できたのか?編)


自分は何者でもない。

これは今も思っていることだ。

特別、すごいスキルがあるわけでもない。

でも、この何者でもない自分だからこそ、No,1になることができたんだと今では思っている。


それは、真似することだ。

1年目のところでも書いたが、自分の尊敬に値する先輩の仕事に対する姿勢、言葉使い、立ち振る舞い、何もかもを真似した。

自分らしくは!?

なんてことは全く考えることなく真似をした。

気づいたら、とんでもない売上を記録していた。

そしてもう一つ意識していたことがある。

それはお客様のためであれば、絶対に売り込まないこと。
他のお店に適切な商品があれば、そのお店に一緒に行ってでも、そっちの商品を紹介していたことだ。

自分の会社ではコミッションの割合が高くなかった、というのもあったからかもしれないが、絶対に無理に自社の商品を売ることだけはしなかった。

時には、絶対に買わない方がいいですよ!なんて言って接客していたこともあった。

それで上司に怒られたこともあった。

でも自分はやり方を変えなかった。


今振り返ると、いうこと聞かない最低な部下ですね。笑

でも、自分には信念があったし、その信念をブラしたら負けだと思っていた。


結果的に同時が短期的に成果を出しているときに、自分は埋もれていたし、時間はかかったが、トップセールスになることはできた。

成果を出した自分と、成果を出してなかった自分。
比べても、特別スキルや能力が上がったわけではない。

この人に追いつきたい。
この人のようになりたい。

その一心で打ち込んでいただけ。

本当にこれだけだ。

でも振り返ると、学生時代や、野球に熱中していた時もそうだ。
プロ野球選手の真似ばかりしていたし、服装も憧れている先輩や尊敬する先輩の真似ばかりしていた。

仕草や言葉使いも真似していた。

自分って何者なんだろう。
自分らしさ、ってなんだろう。

そう思った時は数え切れなくらいある。

でもこれこそが自分らしさなのではないか?

今ではそう思うことができる。



あと成果を出せた理由は、もう一つ。
自分を信じてくれた全てのお客様、スタッフ、上司のおかげだと思う。本当に感謝しています。


10、社会人5年目~9年目(大好きな会社で出世していたのに、なぜ転職したのか編)

スーパースターな先輩に近づくために、真似をしまくった結果、そのうちに僕もちょっとずつ認められるようになった。

その結果、一つの会社で
販売員→店長→商品企画→MD→人事
と幅広く経験させてもらった。

ただ社会人生活を揺るがす大きな転機を迎えることになる。


人事制度の大幅改訂だ。


正直、やる気?モチベーションがめっちゃ下がる出来事となった。

結果として、500人近い退職者が出た。

その変わった人事制度というのは、役職の上がり方が、めっちゃ緩やかになったこと。役職が上がらない限り、給与ベースも上がらないことだ。

自分の場合、次の昇進・昇級は部長クラスにならないと上がらないという事。

実情を見ると、30代で部長になっている人間は0人。
40代で数人だった。

先が見えてしまい、モチベーションを維持することが正直難しくなったタイミングで、共通の知り合いを通して、新しいブランドを立ち上げたいヒトがいて、その人が人事や店長経験ある人を探している、と聞いて会うことになった。

最初はいい人いたら紹介してください!
という感じで、話しが進んでいたが、話しを聞いていうちに、自分の方が興味を持ってしまい、気づいた時には僕を仲間にしてください!と言っていた。

ふとした会社での出来事、ふとした出会いがきっかけで、先のことなど考えずに、会社を辞める決断と新たなチャレンジをする決断をしてしまった。

計画性0。笑
このチャレンジ失敗したらどうしよう?と普通なら考えるかもしれないが、僕は考えていなかった。


その理由に今までお世話になった会社の制度に助けられたことだ。

その制度とは、出戻り制度である。

在籍したことがある社員であれば、いつでも戻ってきていいよ!という制度である。それで実際戻ってきている社員もたくさんいたし、目の当たりにしてきたので、最悪ダメだったら戻ればいっか!

なんて当時は呑気に考えていたが、これがあったからこそ、新しいチャレンジに躊躇なく踏み出せた。

本当に自分の意思決定は周りに支えられて成り立っているなぁ、と思ったと同時に、恵まれていたな、と。

本当にきっかけ一つで人生は大きく変わることを実感した出来事になった。


11、社会人10年目~(新たなチャレンジ編)


新たたな会社ではめっちゃ苦戦の連続だった。
本当に今思えば、うまくいかないことの連続だった。

結果的には1年半続けたのだが、本当にうまくいかなかった。

新しく立ち上げた会社。
新しく立ち上げたブランド。
大手のバックアップもあり、皆がワクワクしている感じだった。

スタートは順調だった。
でも順調なのは最初の2ヶ月だけ。

事実数字はめちゃめちゃ悪かった。

でも、自分のカッコつけや、見られ方を気にして、新しいチャレンジができなかった。
長く勤めた会社を辞めてまでチャレンジしているのに、すぐ逃げたらダサい。
今の役職を手放して、平に戻るのはカッコ悪い。戻りたくない。

自分の中で、やらなければいけないことだらけの働き方となり、本当に苦痛な1年半だった。

見せ方、見られ方。

洋服屋で働く人は、これをめっちゃ意識している。

自分もそれはめっちゃある。拘りもある。

転職するなら、マネージャーで、とか。
少しでも上がるなら、そっちを選んだほうがいいんじゃないか?とか。

結果的に、それで選んで、苦手な仕事で、結果も出ない時期もあり、本当に苦しかった。

それでも、強がって、いい自分を見せようとしている自分がいた。

でもそこには、向き合わなかった。

なぜなら、かっこいい自分でいたいから。


でも、マネジメントをするとわかるが、素直にさらけ出してくれた方が成長するし、そっちの方がむしろかっこいい。

そんなことわかっているのに、自分はできなかった。

素直なやつは成長する。
まずは一旦受け入れよう!

なんて言ってるのに、自分が一番素直じゃなかった。


そんな時に、副業へチャレンジも始めた。


これも忙しい自分かっこいい。
いろんな仕事している自分かっこいい。

そんな理由で始めた。

会社員をしながら副業。
複数の働き方をスタート。

これが今から1年半前くらいだ。

いろんなことをやりたくで、副業を始めた!
なんてのは表向きの理由で、本当はこんなに忙しくしてる自分かっけぇ。

そんな思いでやっていた。


そして、そんな中、AKIOBLOGというYouTubeに出会った。

彼はリクルートで会社員をしながら、副業でコーチングの会社を起業、ブロガー、YouTuber、と、自分が目指す姿を実現していた。

そこで、コーチングというものにも出会った。

そこで、どこの会社かは忘れたが、無料のコーチングを受ける機会があり、初めてコーチングたるものに触れた。

ただその時受けたコーチングでは、スッキリはしたものの、結局何がやりたいのかはわからぬままモヤモヤしていたところ、GOAL-Bの無料コーチングを受ける機会があり、そこで初めてコーチングには人生を変えられる強烈な力があることを実感した。


そのコーチングを提供してくれたかたが、現在自分が通っているコーチングスクールでもある、mindset coaching Schoolを卒業された方だった。



人生は1度きり。
行動しなければ何も変わらない。

当たり前のこの事実に衝撃を受けたことを今でも覚えている。


そして会社員としてのい働き方を手放し、フリーランスとして活動をスタート。


でもこの時点でも、まだかっこいいが入っている。
そんなことはわかっていたが、それも自分らしさなんじゃないか?

そんな思いの中、勤めていたベンチャーアパレル企業の仕事を業務委託にしてもらい、外部人事や、採用代行などの複数スタイルがはじまる。


同時に、プロコーチとして活動していきたい。
本質的な対人支援をしていきたい。

そんな思いがありながらも、今のかっこいいを手放せない自分がいて、中々前に進んでいる感覚はなかった。


でも変わるきっかけが訪れることになる。

12、現在とこれから

本当にこれはつい最近の話しだ。

2024年に入ってから、大きな変化が訪れる。

コーチングスクールへの入学と、キャリアでの変化だ。


今まで自己投資という、自己投資をしたことがなかった。

あるとすれば、本を買うくらい。

あとは、ビジネス系のYouTubeを見るくらいだ。

ジムに行ったりとかの、肉体的な自己投資はしていた。
(体の内側への投資や、向き合ったことはないということ)


でも本を読んだり、YouTubeを見る中で、めっちゃ学んだ気にもなっていた。


でもこのままでは、何も変わらないことはわかっていた。

だから初めて、大きな決断をした。

mindset coaching schoolへの入学だ。


元々、いつか入りたい。ここで学びたい。
そう思っていた。

YouTube も見ていたし、LINEも登録していた。

でもそれで満足している自分もいた。

そんなときに、マインドセットの方とお話しする機会を頂いた。

ここに飛び込んだら、間違いなく変わる。
激変する。

そう直感で思った。

即答で入ります。そう言った。

でも実際は迷っていた。決めきれていない自分がいた。

自分はとっさにウソをついてしまう癖がある。
ここでは、こう答えた方がいいだろう、そう無意識に言葉を発することがある。

だから、いつも本音で向き合うことから、逃げてきた。
うまくかわしてきた。


正直、決断した後も決めきれていない自分が本当に嫌だった。
金額も金額だったこともそうだが、よりによって、まだ見られかたを気にしていた。

でも、「決断することで人生は前に進みます」と言われたことがずーっと頭に残っており、ここで決断しないと、ずっと同じ人生。現状の延長線上の未来にしか行けないことはわかっていた。

だから決断をした。


人生を変えるんだ、と。


ここで変えなければいつ変えるんだ。


僕は必ずプロコーチとして活動していく。
クライアントの未来を、クライアント以上に信じることのできる本物のコーチに必ずなる。



これからどんな未来が待っているかはわからないが、現状の外側のまだ見ぬGOAL。

その未来を本当の自分で、自分らしさで、掴みとります。

そして、人生を今よりも1mmでもよりよくしたいと思っている人全員の可能性を最大化するプロコーチに必ずなる。必ず。

そのために、自分自身も本音でぶつかり。
本音で最高にチャレンジをして生き様を作る。



「過去・現在・未来」
この時間軸の中で我々は生きています。

自分自身、未来やりたいこと、達成したいことはありますが、それは現状になってしまうんです。

なぜなら、想像し得ることだから。
できてしまうと予測できる未来だから。
現状の延長線上にあるものだから。

今の僕では、現状の延長線上でしか未来を捉えられない。

だから、このまだ見ぬ未来を描き、必ず現実にします。

これから何をやっていきたいかは明確には決まっているわけではない。


でも絶対にWant toで生きる。
これだけは絶対にブラさずに。

自分らしさ溢れる世界をunselfishに。



13、最後に


ここまで読んでくださってありがとうございました。


自分らしく生きる。
本音で生きる。


これほど素晴らしいことはないと思います。

最初は胡散臭いと思っていたコーチングが、僕の人生を大きく変えてくれたことにとても感謝しているし、自分もコーチングを学び、コーチングの素晴らしさをもっと多くのヒトに届けたいと思っています。


そしてコーチングを通じてわかったこと。
それは、どんな人にも、その人にしかない”らしさ”がある。
その人にしかない才能がある。


誰しもが可能性を持っている。
逆に”らしさ”がない人はいないし、可能性がない人は存在しないということ。

人の持つ可能性を最大化させたい。
人の持つ”らしさ”を開花させたい。

だから、自分もこのらしさを使って、これから先新しい挑戦を必ずする。
1年以内に。

何をやるか、誰とやるか、どんな事業か、どんなサービスか、具体的には決まっていない。
でも自分はファッションがめっちゃ好き。洋服とスニーカーが好き。

そして、僕は人の想いや熱量を感じられることが大好き。

だから、ファッションを通して、自分にしかできない世界をunselfishに。


1人では生み出すことができない未来のGOAL。

それを共に作っていける存在になりたい。


最後までお読みいただきありがとうございました!


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