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かわいそうなひと

(昨年の秋に書き始めたものだけどなかなかうまくまとまりませんで。ほんで気付いたら年も明けて、季節が変わって、春になっていました。なので季節のタイムラグが拭えません。すみません。)

北海道で雪が積もったというニュースが流れた。その日はわたしが住む京都でも、吐く息が白く見えるほど空気がキーンと冷えていた。一瞬訪れた秋はもう行ってしまわはったんやろか。おかげで衣替えがずっと変なところで止まっていて、積まれた厚手の服を見る度もやもやする。

最近入浴剤にハマっている。問答無用で汗が出るガッツのある入浴剤が好みで、エプソムソルトと漢方のツムラから出ている入浴剤を毎日交代でお風呂に投入している。好きすぎて、姉、親友、ついには義母にまでその良さを熱弁してしまった。

大前提として、わたしはお風呂に浸かることがとても好きだ。沢山水分を摂ってから浴槽の縁に腕を乗せしばらくお湯に浸かると、腕の毛穴からふつふつと汗が湧き出てくる。それは小さな玉のようで、見ていて面白い。ほんまに毛穴ってあるんやなぁと思う。学生の頃にどこかで見た、体の中に水が水槽のようにたまった人間のイラストを思い出す。人間の体重の約60パーセントは水です。地球は、確か70パーセント。人間って小さな地球みたいや。お風呂に浸かると、そういう普段は考えないようなことをつい考えたくなります。良いことも嫌なことも、わたしの腕に乗った汗の玉みたいに止めどなく湧き出てくる。湯船で体が静止することは、わたしの場合あまり無い。目を閉じて少しだけ浮力に身を任せると、広い海の真ん中でぽつんとゆらゆら揺れる小舟が頭の中に思い浮かぶ。静かで穏やかで、真っ青な海。この時間がとても好き。そんな幸福のひととき、ふと気が付くとわたしはまた父のことを考えていた。瞼の上に置いたタオルももう冷えた。うんざり。何もかも鬱陶しくなってきた。最低の気分。今みたいな季節の変わり目になると、わたしは決まって父を思い出してしまうのだ。

わたしの結婚式直前の年末に父と母は離婚をした。とはいえ家庭内別居のような状態はもう10年以上続いていたので、ようやくの離婚であった。わたしの父はどう説明したら良いのか分からないくらい、本当に難しい人だった。父は自分の感情を言葉にすることが苦手なせいで、人や物に当たることでしか何かを伝えることが出来なかった。今も母のドレッサー裏の壁に空いた穴が、それを物語っている。父が殴って空けた穴だ。食卓で突然箸を投げられたり、リビングにあるものをひっくり返して全てゴミ袋に詰め込まれたり、目の前で灯油ストーブをひっくり返されたり、朝から理不尽に怒鳴られて校門前まで泣きながら登校した日が何度もあった。父は体に傷を付けないギリギリのラインで、わたしたち家族のこころを傷付けた。その度にくそぼけはよ死ねと心の中で何度も呟いた。この世に存在する人に言っちゃいけない言葉を端から端まで全部並べたが、それでもまだ足りなかった。呟いて呟いて胸が詰まって倒れそうになる頃、いつもストンと熱が冷めた。わたしは父のことがとても怖かったけれど、同じくらいかわいそうだと思っていたからだ。

わたしにとって家族以外の他者との関わりは、生きる上で頼みの綱だった。自慢じゃないがわたしには友人と呼べる人が沢山いる。会いたいと言ってくれる人も、会いたいと思える人もいる。彼らはわたしを不用意に傷付けようとしなかったし、大切に扱ってくれた。当たり前のことかもしれないけれど、父から受ける扱いとはまるで違うものだった。中にはそのままのわたしが一番良い、そのままのわたしが好きだと言ってくれる人までいた。そんな友人たちと過ごす時間は、父がいる家の中では感じられない安心感があった。それがどんなに有難かったか。

しかし父にはわたしのようにわざわざ会いにきたり、父から会いに行くような人は一人もいない。なんなら身内にさえ、父は心を開けなかった。父と最後に喧嘩をした時、こんなこと(家)になるとは思ってなかったんやと大声で怒鳴られた。父は自分がつくった家族の形に満足していなかったらしい。そんなこと娘に言うなよと思ったが、そらそうでしょうねとも思った。分かり合おうと努力したこっちの言動を、全て無視してきて。一回でも誰かと本気で向き合おうとしたか。してへんやろ。あほめ、自業自得じゃ。あーあやっぱり父はかわいそうな人、本当にかわいそう。そうやって少しだけ父を見下すことで、わたしは心の熱をストンと冷ましていたのだ。

今みたいな季節の変わり目、わたしは何故か部屋の真ん中でぽつんと一人で座る父の姿を想像する。毎年夏になるとほぼ裸みたいな格好をして、扇風機だけ回して汗をだらだらかいていた。冬は家の中でもダウンジャケットを着込んで、熱々のコーヒーを飲んでいた。今年の夏は冬は、自分のためにちゃんとエアコンを点けるのだろうか。そんな父を想像する時、わたしは何故か涙が出る。そんな自分がとても不快で仕方がない。あんなに憎んだ父に涙を流す自分がどうしても許せないのだ。偽善者気取りか。父と母の仲をうまく取り持つことができなかった悔しさか。寂しさか。怒りか。涙の理由は分からない。でもかわいそうという言葉が、一番しっくりくる気がする。それはさっき言った見下したかわいそうとはちょっと違う、かわいそうなのだ。言葉では説明しにくいのだけれど、胸の奥の方がひりひりするような時のかわいそうなのだ。わたしは父のことが小さい頃からずっと、大人になった今でもずっと、かわいそうで仕方がないのだ。

こういう話をするとたまにこんなことを言う人がいる。お父さんのことを本当は愛しているんだね。会いたいんだね、やっぱり親子なんだねと。そう言われる度わたしは相手を静かに呪った。それは違う。誰かを憎んだまま愛するなんてそんな器用なことわたしはしたくない。だって、もっとやわらかくて、あたたかくて、日向ぼっこしている時のような気持ちじゃなかったっけ?愛って。愛ってほんまになんなんやろう。

iPhoneの中のメモ帳に、考えたことや感情を出来るだけ残すようにしている。こうやって文章を考える時なんかもまずそこを見てから書き始めると、言いたいことが見つかりやすくなるのだ。今回も同じようにメモ帳を開いてから書き始めたのだが、その中にいつメモしたのか分からない「愛は執念」という言葉が残っていた。読んだ本から抜粋したのか、最近聴いた曲の歌詞なのか。不思議なくらいまるでさっぱり覚えていない。でも誰の言葉かは分からないが、わたしの問いになぜかしっくりおさまった。愛ってなに?、愛は執念。ずっと自分につきまとうもの。ある時一瞬だけ現れるものではなく、執念深くずっとそこにあるもの。そんな重たさが、愛にはあるのかもしれないと。

もしいつかこの気持ちを表せられる言葉が見つかってそれが愛だとしたら、その時は誰でもなくわたし自身が、これは愛だと名付けたい。

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