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人魚の眠る家。






原作は東野圭吾氏の小説。


なぜこの映画をみにいったのかというと

大学在学中に、自分が一番興味をもった学問が

生命倫理学という分野だったからだ。


この分野は、かなり難しく

尊厳死や、患者の意思尊重、
QOL、延命治療の継続など

医療従事者として行う行為が、

本当に最善なのかということを

考える学問である。


当時19歳だった自分は、

患者の命を一日でも多く
生かすことが "医" だと思っていた。

でもそれは"必ずしも正しくはない"
ということを知って

絶望感に近いものを感じた。


そのなかで、
テーマの一つであったのが、脳死だ。

脳死(のうし、英: brain death)とは、ヒトの脳幹を含めた脳すべての機能が不可逆的に回復不可能な段階まで低下して回復不能と認められた状態のことである。

脳死は、果たして人間の死なのか。


脳死状態の患者は
人工呼吸器で呼吸しているが、心拍はある。

体温もあり、体毛も伸びる、また発汗もある。

子供の場合、成長する。

この状態をもって、と言えるのか。


脳死判定は臓器提供を前提とした場合にだけ
判定が行われる。


映画では、最新技術を使用して

人工的に脳波を利用し
患者の身体を動かしていた。


映画内では、
その母親を気味悪がる描写があったが

母親の気持ちはわかる。


学んでいた生命倫理学のなかでも

脳死患者の母親の、
実際の手記を読んだりした。


確かに、愛する娘が
身体を動かすのをみれたら嬉しいと思う。

ただ、母親があまりにもエスカレートして

"本人の意思をもってした行動"
演出しすぎてしまっていた。

・両手を持ち上げて、物を受け取る 
・顔面の筋肉を動かして笑顔をつくる


正直、人間の脳のすべては解明されておらず

脳死を人の死だと、断言することはできないし

当事者の気持ちを理解することは
到底不可能だと思う。


ただ、個人的には

やはり脳死は人の死だと思う。


なぜなら、そこに本人の意思はないから。

確かに、もう一度目をあける可能性は

ないとは言い切れない。


でも、たとえ最新技術を使って、
身体を動かしたとしても

いつかは、必ず"終わり"が来る。


その間、肉体が存在していても

そこに本人の意志はない。


一緒にみにいった友人が言っていた。

人間には、2つの命がある。と。


それは、肉体としての命と

精神としての命。


確かになぁ。と思った。


ただ、残された人たちが
冷静に死と認めることは、容易ではない。

そこを認めるのは、時間が要すると思う。


綺麗事にはなってしまうが

たとえ肉体が朽ちたとしても、

その人と過ごした時間や、思い出は

確かにそこにあって

それだけは、覚えている人が生き続ける限り

朽ちることはない。


それを信じるしかないなぁと思う。


読んでくれてありがとうございました。