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【連載小説】『晴子』10

 Electric Light Orchestraが流れている。人が通り過ぎて、その都度微妙に空気が鈍く動くのを肌が感じ取る。音楽は多分、私の横にあるCDショップからだ。最近ではCDショップも経営が厳しいと聞くが、それでも何とか持ちこたえている店もあるのは、根強い音楽ファンと最近確立されたアイドルのビジネスモデルの賜物なのだろうか。私は経済には疎いから、どれだけ考えても正解にたどり着くことはなさそうだが、それでもこんなことを考えているのは、あの人を待つ間、何をしていいのかわからなくなる瞬間が時々あって、それがちょうど今なのだ。
 人々が動き回る街中に一人立ち止まっていると、立ち止まっている私が何か間違ったことをしているように感じる。別に、街中で立ち止まろうが、歩いていようが、どちらにせよ間違ってはいないのだ。なのに、駅前で忙しく立ち回る人間と私は、同じ時間を刻む時計を持っていないように感じる。
「ごめんごめん、電車がヤバくてさ。」
 あの人が来たのは約束の6時から15分くらい過ぎた頃だった。ここで「待った?」なんて聞かないところも、私がこの人を愛する理由の一つだ。待ったのは当たり前で、それに対して気を遣った返答をすることまで見通すことができて、見通すことができるほどの会話なんて交わす必要がないのだ。どうしてあの人は、無駄な会話をあまりしないのに無口な印象がないのだろう。
「何考えてたの?」
 唐突に聞いてくる。何かを考えていたことには考えていたが、だからといって考えていたことに執着があるわけではなかったので、その返答は難しかった。しばらく、考え込んで黙ってしまった後で答えた。
「日本の音楽業界について。」
 彼は特段驚く様子は見せなかった代わりに、
「難しいこと考えてるね。」
と言った。でも、勘の良い彼に嘘をつくことのナンセンスに耐えられなくなって、すぐに訂正しようと思った。
「嘘。」
 彼は、私の顔を不思議そうにのぞき込んだ。
「本当はそんなこと考えてない。本当は、何を考えてたか忘れたから、それを思い出そうとしていたの。」
 彼は私の顔をのぞき込んだまま「大丈夫だよ。行こうか。」と言った。大丈夫だよ、それが嘘であっても、それがこれからの私たちには何も重大じゃない。何も変わらない。
 そう、きっと何も変わらない。

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