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【連載短編】『白狐』5

 終業式の日は、12月をさらに冷やす雨だった。
 午前中で下校になった俺は、昇降口で清水を待っていた。彼女のクラスのホームルームが長引いているらしい。なかなか彼女が現れない。
 ホームルームが終わって、先生に呼び止められた。
「神谷。ちょっとええか?」
 俺は先生と一緒に廊下に出た。わざわざ2学期最後の日に呼び出されるようなことをしただろうか。俺には心当たりがなかった。俺は少し身構えていたが、それをあっさり見破られた。
「まあ、そう肩肘張らんと」
 先生はそう言って俺の肩を軽く叩いた。
「お前、進学興味ないか?」
 そこでやっと思い出したのだ。11月の進路希望調査で進学か就職の選択を保留にしていたことを。大体この時期になると、うちの高校では進学か就職かを選択し、それによって3年生のクラス分けもある程度決まる。現段階で進路希望を保留にするやつも実は珍しいことではない。その場合は、生徒、時には保護者も含め教師と面談を行い、3月まで結論を出す流れになる。
「進学ですか…」
 俺ははっきりとした返事をできないでいた。
「まあ、まだ3月まで時間はあるけど、意外とあっちゅう間に過ぎるからな。今のところ、どう思ってるん?」
 就職組は、受験組より早く結果が出る。勉強に対するモチベーションも、3年生の後半から明らかに差が出始めるだろう。そんなことは何となく分かっていても、未だに大学に行くことが自分にとって何になるのかあまり見当がつかない。でも、就職するにしても、働く自分の姿がイメージできないことも事実だった。
「神谷の成績なら、国公立はまだしも、私立ならいけそうなところは結構あると思うで。進学、狙ってみてもええんちゃうか」
「はい」
「親御さんとは、何か話しとるか?」
「まあ、ぼちぼち」
 俺のどっちつかずの返事に、先生はそこから先は何も進まないと思ったのだろう。
「とにかく、冬休みの間に考えとき。今はよく分からないっていうなら、少なくとも今の段階で何を知っておきたいか。何を知れば判断が下せそうか。そういうことを考えとくことやな。分かったか?」
「はい」
 先生は、俺に背を向けて廊下を歩き出した。
「先生」
 俺は先生を呼び止めた。知っておきたいことが、一つあったことを思い出した。
「なんや?」
「あの…。あの、大学って、どんな感じのところですか?いいところでしたか?」
 知っておきたいことは明確にあったが、言葉は随分と漠然とした質問になって口からでた。
 先生は少し考えてから俺を見て、少し笑った。
「ええとこやったぞ。大学は。変なやつがいっぱいおってな」
 先生は振り返りざまに、じゃあ、と言って左手を挙げた。薬指の付け根が白く、小さく光るのが見えた。
 気が付くと、昇降口が少し騒がしくなっていた。彼女のクラスのホームルームが終わったらしい。下駄箱に集まる人の中に、清水の姿を認める。
 俺たちは、いつものように帰路についた。俺は自転車を押して、彼女はその隣を歩く。
「先輩は冬休みどうするんですか?」
 冬の乾いた空気が俺の肌を刺す。向かい風に、思わず少し顎を引いて歩いてしまう。俺の横を歩く清水の肩くらいまである髪が風に暴れる。
「別に、そんなにやることないな。正月に父親の実家に帰るくらいちゃうかな」
 冬休みは毎年、兵庫にある父親の実家に家族で帰る。来年は俺が受験だったら帰れない。もしかしたら、俺が進学でこの町を出たら、もう家族揃って父方の祖父母の家に行くのは、これが最後になるかもしれない。
「そうなんですね」
「清水は?」
「私も、おばあちゃんの家に帰るかな」
 大体、こんな徳島の田舎町の高校生が冬休みにやることはかなり限られている。長期休み、最寄りのショッピングモールに行っても、同じ高校の連中や、別の高校に行った中学校の同級生に出会うことは多い。みんな考えることは同じなのだ。というか、同じにならざるをえない。
「でも、私も特にやることはないですね。一応勉強もしとこうとは思うんですけど」
 清水は真面目だと思う。自分の進路も暫定的にであっても明確で、一応それに向けて努力ができる。「一応」と言ってやることは、大概はいい加減で、粗削りなものになりやすく、まったく何もしないことだって珍しくない。でも、彼女の場合、「一応」とは言ってもちゃんとやるのだろう。そんな清水を見ると、きっと彼女は途中で路線変更をしても、きっと上手くやっていけるのだろうと思う。仮に本人にはそう思えずにいたとしてもだ。
 清水は俺の少し前を、フジファブリックをハミングしながら歩いて行く。俺はそうやって、いつか彼女に置いて行かれるかもしれない。白狐を二人で見ても、ずっと一緒には歩いて行けないかもしれない。
 その推測は、かなりの確率でありえそうなことだと思う。こうやって、彼女は歌いながらどんどん先に行って、俺の目に見えないところまで行ってしまう。俺の姿が見えなくなって、もう俺とは合流できなくなっても、彼女はきっとこうやって上機嫌にどこかで歌っていられるだろう。
 それに、悔しさとか、悲しさとか、寂しさとか、その手の感情は起こらなかった。ある意味それは当然のことで、当然すぎるが故に抗いようがない。どんなことを思ったって、しょうがないような気がした。
「先輩?」
 遠くから、清水の声が聞こえた。気が付くと彼女は俺の10メートルくらい先にいた。俺は少し急いで彼女に追いついた。
「何かあったんですか?」
 立ち止まり俺の方を向く彼女は風に身を固めていた。
「ううん。何でもないよ」
 俺たちはまた歩き出した。
 いつも二人が分かれる交差点まであと少しというところで、清水が口を開いた。
「あの、白狐の噂、先輩は知ってます?」
 俺は一瞬怯んでしまった。俺を怯ませたのは、清水がこの話を知っていることではなく、話の切り出されるタイミングが桐田から話を聞いて間もないタイミングだったからだ。清水は、俺の反応をこう捉えた。
「やっぱり、先輩は知らないですよね。なんか興味なさそうですもん。こういう話に。あの、白狐っていうのは…」
「知っとる、知っとるよ」
 俺は急いで彼女を遮った。彼女は俺の突然の制止に一瞬戸惑った。
「縁結びの噂やろ?」
「そうです。なんだ、先輩も知ってたんですね」
「桐田から聞いたんよ。つい最近やけどね」
 俺と清水は気が付くと立ち止まっていた。軽トラが一台、横を通り過ぎていく。
「先輩」
 嫌な予感がした。
「私、先輩のことが好きです」
 その予感は当たりそうな気がした。
「俺も好きだよ」
 こう言うしかないような気がした。もちろんこれは事実だが、仮にそうでなくてもそれは大した問題ではないようだった。
「じゃあ、私と行きませんか?」
 予感は、現実になろうとしている。
「白狐を見に」
 俺はすぐに返答ができなかった。彼女は本気だと思った。真面目な彼女のことだ。この噂をだってまともに信じているとは考え難いが、それでも俺との交際に対して彼女は真面目だ。
「あかんよ」
 ほとんど考えのない応答だった。
「白狐が見れるか分からんし、おったとしても、深夜に行くんやろ。女の子を連れてそんなことできひんよ」
 もし白狐を見られたとしても、永遠に結ばれるかなんて分からないじゃないか、とは言わなかった。これを言うことは、彼女なりの真面目さに対して、アンフェアでズルい気がしたからだ。
「でも、私は真剣です」
 彼女は俺を真っすぐに見つめた。その視線は、半ば俺を射すくめるようだった。
「でも…」
 俺の戸惑いは拭い去れないまま、でも話は何か一つの結論に収斂していくような気がしていた。
「もしかして、怖いんですか?」
 清水は戦略を変えてきた。今度は俺を、そのニヤついた表情でからかう。
「別にそういうわけちゃうけど」
 漠然とした恐怖があったことは否定できない。でも、それは深夜のスピリチュアルな存在に対するものではないことは確かだった。しかし、それが確かだったというだけで、じゃあ一体何に対する恐怖なのかというのは、よく分からなかった。
「じゃあ行きましょ?ね?時間が心配なら、7時とかからでいいと思いますし」
 清水はすっかり意を決したという感じだった。俺の方でも、もう引き下がれないような気がした。
 予感は、現実のものになった。

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