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【連載小説】『晴子』2

「その傷、どうしたんだい?」
 ベッドの上であの人は、私の右手の傷を見つけて、そう聞いた。
「大したことないの。料理の時、ちょっと手が滑ったの。」
 嘘にしては、あまりにもどうでもよすぎる。本当のことを言っても、大して結果は変わらなかっただろう。
「気を付けなきゃダメだよ。」
 あの人は、私の右手をとって、傷のあたりを少し強く吸った。その感触が少しくすぐったかった。
「ダメだ。」
 口を離してあの人は言った。「全然治らない。」
 あの人はそう言って、私の笑みを誘うような表情を向けてきた。私は微笑んで、あの人の額に軽くキスをした。
 あの人は、裸のままベッドから抜け出し、衣服を身に着け始めた。私は相変わらず、ベッドに横たわって、その背中を眺めていた。この人は、シャワーを浴びて帰らない。それが何故だか、少し嬉しかった。それは多分、あの人が私の痕跡を洗い流すことなく、この部屋を出ていこうとしていることが。
「煙草ぐらい吸っていけば?」
「いや、今日はこのあと予定があるんだ。」
 彼は、姿見でネクタイを直していた。煙草を勧めたのは、別に引き止めたかったわけじゃない。ただ、私もなにかしらあの人の痕跡を身にまとって、この部屋から出ていきたかっただけなのだ。
「チェックアウト、任せていいかい?」
「構わないわ。」
 私は、バスローブを雑にまとって、あの人の首にしがみついた。あの人はそれに応じた。
「また連絡する。麻美。」
 そう言って、あの人は部屋を出て行った。
 部屋に残された私は、もう一度ベッドに仰向けに寝転がった。これで、麻美としての時間は中断になる。窓の外に目を向けてみる。街は本格的に夏が始まろうとしていた。梅雨の雨雲は少しずつ影を潜め、代わりに強い陽射しが空を支配し始めていた。湿度を追いかけるように、気温も上がってきていた。
 私は、ベッドから這い出て、小さな冷蔵庫に入ったミネラルウォーターを一口含んだ。もう一度、窓の外を見る。今度は窓の前に行って、下を覗き込んだ。外を歩く人達は、半袖が増えてきた。まだ、天気予報を完全に信用できないのか、傘を持って歩いている人もいる。
 私は、しばらくして、衣服を身に着け始めた。シャワーは浴びなかった。洗面所に行って、顔を洗い、歯を磨く。Paul McCartneyのSilly Love Songを鼻歌で唄いながらメイクを整えた。好きな人と素晴らしい朝を迎えられたのだ。すこぶる気分はよかった。髪を手櫛で軽く整え身支度を整えた。
 腕時計を巻き付けた。見ると時間は午前9時30分。チェックアウトの時間が迫っていた。軽く乱れたベッドを整える。荷物をまとめて、部屋を出た。
 背中に、昨夜のあの人の柔らかい唇の感触が残ったままだった。

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