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後悔しているのは「母親業」

最近、読み進めているのは『母親になって後悔してる』

こちらの本は、タイトルだけで嫌悪感を抱く人もいるはず。読んでみたらそんなことないよ!と言えたら良かったけれど、「母親」という存在に対しての理想を強くお持ちの方には、本を読んでも嫌悪感が増幅するだけかも。

もしも私が「娘」という立場だけだったら、この本を読んで落ち込んだかもしれない。けれど私は「母親」であり、この本に書かれていることに共感せずにはいられなかった。

この本に書かれている後悔は、大まかに言えば「母親業」のこと。子どもたちに出会ったことではなく、「母親業」のすべてがしんどい、といったことが書いてあった。

どんな物事も、やったことがないことって想像するしかない。実際に自分が経験するまでは、その大変さを知ることは不可能。一度でも経験してみると、その物事が自分に向いているのかどうかを見極めることが出来るかもしれない。ダメだったらやめればいい、だから何でもチャレンジしてみよう!といったことも言われるけれど、親というのは途中でやめることが出来ない。

『母親になって後悔してる』には、自分には「母親業」が向いていなかった、と気づいた女性たちの声がある。こういった声を上げることは、本にも書かれていたけれどとても勇気が要る。「母親」という存在を神化している人たちも多く存在するし、そして言われるのだ、
「子どもを産まなければ良かったのに」
と。

子どもを産み「母親」になってみるまで、「母親」がどういうものかを知ることは出来ない。こういうものだよ、と教えてくれる人もいるけれど、それはその人が感じる「母親」であって、自分が感じている「母親」とはズレがある場合が多い。自分の親が自分にどのように接してくれたのか、その経験から導き出された「母親像」を想像する人も多いだろうけれど、実際にやってみるとそれともまた違った「母親」が生まれる。当たり前か、自分の母親と自分は別物なんだし。

本の中で、自分の子ども時代を苦痛に感じていた人の話があった。うまくみんなの仲間に入ることが出来なくて悩んでいた女性は、子どもを産んでもう一度、同じ悩みを抱えることになったと話していた。

いじめられないだろうか、うまくみんなの仲間に入っていけるだろうか、と悩んだ少女時代の悩みを、自身の娘にも同じように、あの子はいじめられないだろうか、うまく仲間にはいれるだろうか、と悩み続ける。トラウマになっていた子ども時代をもう一度生きることになった苦痛を語る女性の言葉に、私自身も母として同じように思って苦痛だったことに気がついた。

子どもと自分は別の人間なのだから、自分が少女時代に感じた悩みを、我が子が抱えるとは限らない。子どもは親の所有物ではないし、子どもは子どもの人生があって、そこでうまくやっていく可能性だってある。しかし親は心配していしまうのだ、「もし自分と同じようになってしまったらどうしよう」と。

そんな話をすると夫は、
「実際に問題が起きてから対処すればいい」
とあっさり口にする。全くその通りでぐうの音も出ない。

それにしても『母親になって後悔してる』を読めてよかったと心から思う。自分が必要以上にイライラしてしまうこと、どうして子どもたちに厳しくしてしまうのか、優しく声をかけてあげられないのか、といったことの理由が自分なりに分かったような気がした。

私が辛いと感じていたのは「母親業」であり、子どもたちとは関係がないのだ。もしも「母親」としてしっかりと役目を果たすという任務が無ければ、私は子どもたちともっと仲良くやれただろう。しかし私は「母親」であって、でもその「母親」であるということに多くを求めているような気もしている。

世間が「母親」を神化しているなんて思っていたけれど、私だって立派に「母親」を神化していて、こうしなければ、ああしなければという思いは常にあった。世間に認められるために、人に認められるためにしていたことで、自分を苦しめ、子どもたちに厳しくし過ぎていた。

誰とも分からぬ世間を相手に、大事な子どもたちをないがしろにしている事実に気づいてみると、どうしてこんなにもアホなことが出来たのかと今までの自分を後悔してしまう。

夫に言わせれば
「後悔するなら次に何ができるのかを考えたほうが良い」
とのこと。いやはや、ごもっとも。
正論は時に腹が立ちますなぁ。

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